妄想断想三国志⑧

正史『三国志』と小説『三国志演義』との間を妄想が行き交うエッセイ。

不定期に配信され、断りもなく終わると思いますがご容赦ください。

二つの疑問

正史の張松はなぜ、益州の内紛を呼び込みかねない劉備援軍要請の献策をしたのか、また、果たして彼は劉備に接触した時点で益州奪取まで絵図面を引いていたのか。

一つ目の疑問については、すぐに答えが出る。

当時の益州は酷い内乱状態にあった。

張魯(ちょうろ)も元々は劉璋の父・劉焉(りゅうえん)が命じて漢中に駐屯させたのが、劉璋の代になって離反したものだし、これに対抗させて兵を与えた龐羲(ほうぎ)や李異(りい)などの武将も手柄を恃んでつけあがり、叛乱しかねない勢い。

同姓として比較的信頼ができ(これが実は信頼できないのだが)、かつ百戦錬磨の劉備軍を迎え入れるという選択は一応理にかなっている。もちろん政・軍事の主導権はある程度劉備へと移行するだろうが、既に軍事的な求心力を失っているのだから、あまり現況と変わりない。

荊州牧・劉表の例に倣って、焦眉の軍事的内憂外患には劉備に対抗してもらいつつ、同時に益州の治政を立て直して双極的な統治体制を目指す、張松の目論みはせいぜいそんなところではなかったのだろうか。

最終的に劉璋を追い出して劉備に益州唯一の主となってもらう、張松にそこまで過激な腹案があったものか?

益州奪取の黒幕は誰か

もう少し史書の記す経緯を追ってみることにする。

  1. 援軍として到着した劉備を迎えた法正は「劉璋の惰弱につけこみましょう。張松は益州の股肱の臣でありますが、内部で呼応いたします。」と伝える。(蜀書・法正伝)
  2. 劉備は益州の涪(ふ)で劉璋と会見する。そこで張松は法正に「会見の場で劉璋を殺害すべし」と劉備に具申させた。劉備の軍師・龐統も類似の進言を行っている。しかし劉備は実行しなかった。(蜀書・先主伝、龐統伝)
  3. 建安17年(212年)、曹操が濡須(じゅしゅ)で孫権を攻撃。孫権との同盟を理由に劉備が荊州への撤退を申し出る。劉璋の元に留まっていた張松は「今大事垂可立、如何釋此去乎!」(今大業が打ち立てられようとしているのに、どうしてこれを放置して立ち去られるのですか。)と法正・劉備に手紙を送ろうとするが兄の張粛に見つかり、劉璋に誅殺される。これによって劉備と劉璋の仲が決裂。 (蜀書・先主伝)

このあたりでは、張松が明らかに劉備奪蜀の黒幕とされている。

しかし、3.の手紙は、”大事”と記しているだけで、明確な謀反の意思を伝えているわけではない。そして、”大事” が劉備の益州武力奪取を意味しているのなら、悠長に手紙など書いている場合ではない。妻子を捨ててでも劉備陣営に奔らなくてはいけない。

そもそも、劉備と劉璋の不仲が決定的になっただけで、張松の面目は丸つぶれ、劉璋陣営に留まっている限り相当な粛清を覚悟しなければならないのだ。劉備が撤退を申し出た時点で、やはり張松に残された選択肢は劉備陣営に逃げて賓客程度の待遇に収まるくらいしかない。

張松はこの時点に至って尚、劉備と劉璋の軍事的衝突を想定していなかったどころか、まだ友好関係の回復の可能性があると踏んでいたから劉璋の元に留まっていたのではないだろうか。

1.と2.で張松からの献策を伝えているのが法正である点に注目したい。

そういえば『呉書』は 張松と法正が劉備に益州の地誌を包み隠さず伝えたことを示唆していた。(前回の記事を参照。)いや、ほぼ間違いなく法正であっただろう。張松は劉備に会ったとしても赤壁の戦い直後の一回限りである。このときの張松の元々の使命は曹操への修好を確認することであって、益州の詳細な情報を持参したとは考えづらい。

少なくとも二度劉備に会見している法正が益州の地誌を伝えたと考えるのが自然である。機密情報とも言うべき自国の地誌を他の君主に伝えているのだから、法正は既にこの時点で劉備と奪蜀で内通していたとみるべきだ。

二つ目の疑問に対する、私なりの答えはこうである。

益州武力奪取のシナリオを描いた鷹派はおそらく法正だ。

張松はあくまで劉璋・劉備の修好に努め、劉備の軍事力に頼りながら益州の統治を立て直し、せいぜい緩やかな政権シフトを目指していた。かたや法正は表向き張松の陪臣・劉璋修好の使者という体で劉備陣営に滞在しながら、「張松はこう申しております」と彼を自己韜晦に利用して、劉備の軍師・龐統ともに劉璋排斥を謀ったのである。

法正は孟達ともに、司隷扶風郡から飢饉を避けてきた流れ者である。張松とは親交はあったものの、劉璋政権において地元出身の顕官である彼と法正・孟達の処遇には大きな懸隔がある。劉備に恩を売って劉璋を追い出してもらい、益州のエスタブリッシュメントが入れ替われば、法正・孟達は大幅な立身出世を見込めるのだ。

彼にとって幸いなことに、張松は劉備・劉璋の不和と同時に殺害された。「すべて張松から指図されていた」と周囲に漏らせば、死人に口なし、旧主・劉璋に対する不忠の罪は張松へと転嫁されることになる。

劉備入蜀に貢献した益州士人、張松・法正・孟達の顛末は三者三様だ。

張松は劉備の益州政権に参画する前に劉璋に誅殺され、孟達はその後重用されるも劉封との不仲をきっかけに魏へ亡命し、その後また魏に反逆し司馬懿に討たれる。一躍功臣として孔明をも凌ぐ地位を得た法正が手柄を総取りした格好となったが、劉備が皇帝に即位する前年の建安25年(220年)に病没する。


かなり陰謀史観寄りな考察になってしまった。

このあたりの経緯は孔明が蜀に安定した丞相府政権を築く前座話のようなもので、残念ながら『演義』は大した脚色を仕立てていない。なので、これは『演義』の見どころとして有り得たはずのもう一つの物語、そう読んでいただければ幸いである。

妄想断想三国志⑦

正史『三国志』と小説『三国志演義』との間を妄想が行き交うエッセイ。

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もう一人の外交官

赤壁の戦い前後、荊州をうろついていた外交官が魯粛の他にもう一人いた。

益州の張松だ。

彼が手引きして劉備の入蜀を成功させる『演義』の大まかなあらすじは以下の通り。(井波律子訳『三国志演義(二)、(三)』(講談社 2014 )から要約)

建安16年(211年)、漢中の張魯(ちょうろ)が益州の攻略を目論んでいるという情報を得て、益州州牧の劉璋(りゅうしょう)は震え上がる。そこへ州の別駕従事(州の副官)・張松(ちょうしょう)は、曹操に張魯を牽制してもらう案を進言し、曹操のいる許都へ向かう。こっそり益州の地図も携えて。ところが曹操は辺境から来た張松を冷たくあしらったばかりか、彼の不遜な態度に腹を立てて、棒叩きの刑を加えたうえで追い出してしまった。張松は「もともと益州の地を曹操に献上するつもりであったのに、これほど侮辱されるとは、、」と曹操に深い恨みを抱く。ところがその帰途、荊州を寄った張松は劉備に厚く歓迎される。張松は劉備の人柄に感動し、「益州の主、劉璋は暗愚・軟弱です。是非ここを奪って覇業の基礎となさいませ」と益州の地図まで渡してしまったのであった。復命した張松は劉璋に対し、「曹操と組んではなりません。劉備は殿とご同族の大人物。これに使者を遣わして招けば、張魯への備えとなります」。他の群臣は「劉備を益州に招いて、彼が身を屈し小さくしているわけがない。かならずや彼に益州を奪われる」と反対したが、劉璋は耳を貸さず、張松の友人であり彼と志を同じくする法正(ほうせい)・孟達(もうたつ)を使者として劉備に遣わせた。劉備は軍勢を率いて益州に入った後、結局は劉璋と対立して劉璋の本拠地・成都(せいと)へと転進し、益州を奪い取ってしまう。劉璋のもとに留まっていた張松は、劉備との密通文書を兄・張粛(ちょうしゅく)に発見されて劉璋に殺害されてしまう。

『演義』では劉璋の益州を劉備に売った主犯格は張松ということになっている。

しかし、既に益州別駕従事という要職にあった張松が(正史でもそうなっている)、自分の主をわざわざ劉璋から劉備に挿げ替えるメリットとは一体何なのだろう?

既に荊州に一定の規模の幕府を構えている劉備政権に参加したとして、自分の権勢は約束されているわけではないのに。いくら自分の主君が頼りないとはいえ、他所から別の主君を迎えようなどという突飛な計画を思いつくものだろうか。

ここをずっと不審に思っていた。

『三国志』他私史から読み取れる委細はやや異なるようだ。

  1. 劉璋が曹操に使者を送ったのは、建安13年(208年)の曹操荊州制圧直後のこと。まず、陰溥(いんほ)を派遣して曹操に敬意を表し、劉璋は振威将軍に任ぜられた。劉璋は相次いで別駕従事の張粛(ちょうしゅく、張松の兄)を、次いで同じく別駕従事の張松を派遣。しかし曹操は劉備を敗走させた直後で、張松を歯牙にもかけなかった。(蜀書・劉璋伝)
  2. 建安13年12月、曹操は赤壁で敗北して荊州から撤退。荊州から帰った張松は曹操との絶交と劉備との修好を勧め、劉璋はこれを容れる。劉璋は劉備に法正、孟達、兵数千人を援軍として送る。法正はその後劉璋のもとへ復命。(蜀書・劉璋伝)韋昭の『呉書』は、まず張松がそして法正が劉備に会い、益州の地誌をつぶさに伝えたという異聞を載せる。
  3. 建安16年(211年)、曹操が漢中の張魯を討伐しようとしているとの情報が劉璋の元に入る。張松は曹操への対抗として、「劉備は殿のご一族に当たるうえ、曹操の仇敵。彼に張魯を討伐させて益州を強化して曹操の侵攻に備えましょう」と劉璋に進言。劉璋はこれに従って劉備に進物を贈って援軍を要請し、劉備は歩兵数万を率いて益州に入った。法正は劉璋の命を受けて、四千の兵を率いて劉備を迎えた。(蜀書・先主伝)

張松は劉備への援軍要請はしているけれども、劉備に“益州奪取”まで献策してはいない。(もちろん劉備陣営側の意図は別の話である。これに前後する孫権・魯粛との外交交渉の内容から、劉備が当時益州制圧を目論んでいたことは明らかだ。)

いやそれどころか、張松が劉備と直接会っているかどうかもはっきりしない。

そもそも1.と2.の経過だけを見ると、張松は曹操との修好という本来の役割を果たせず、なんとか面目を回復しようと荊州に留まっていたところ、運よく赤壁の戦いで荊州の情勢が様変わりしたので、俄かに政略的重要性を増してきた劉備との提携を模索しただけのように思える。(ひょっとすると張松は周瑜も訪れていたかもしれない。)

しかし正史にしても、劉璋は劉備を招き入れ、結果として益州を奪われてしまうのである。

張松はなぜ益州の内紛を呼び込みかねない3.のような献策をしたのか。

また彼は1.2.の時点で劉備の益州奪取まで絵図面を引いていたのだろうか、、、

(次回へと続く)

断想妄想三国志⑥

正史『三国志』と小説『三国志演義』との間を妄想が行き交うエッセイ。

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口八丁の魯粛

まずは正史から。

結局のところ、孫権に対する魯粛の手柄ってなんだったのだろう?

劉備陣営を味方に引き込んだところ?しかし結局赤壁の戦いは周瑜・黄蓋の作戦によって勝利したわけであるし、傭兵隊長・劉備は漁夫の利を得て荊州南部で独立、挙句益州まで得たけれども、ここまで孫権陣営には何の裨益もない。これはむしろ外交官としては大失態ではないのだろうか。

孫・劉交渉の場で魯粛は(「孫権は」と言うべきかもしれないけど)どうしたことかいつも劉備に対して譲歩をしている。

  • 建安15年(210年)頃、劉備が京口に孫権を訪れた際、魯粛だけが劉備への荊州貸与を孫権に提案。周瑜の死後、劉備に南郡が譲渡されて実施されている。(呉書・魯粛伝、程普伝)
  • その後、魯粛は陸口に駐屯。境界地帯での関羽との紛争が相次いだが、魯粛は常に友好的に鎮めた。(呉書・魯粛伝)
  • 建安20年(215年)、荊州の返却を巡って孫権と劉備が対立した。魯粛と関羽の会見(単刀会)の後、劉備からの申し入れにより和平が成立して、孫権は一旦占領した零陵郡を劉備に返している。( 呉書・呉主伝、蜀書、先主伝)

この人、呉書ではなくて蜀書に立伝されるべきだったのでは?

もちろん孫権側にも、合肥や濡須での対曹軍戦線に手を取られおり、周瑜の牽制や、また周瑜死後の荊州の統治に劉備の手を借りなければならないという事情はあった。

そして孫権にとっての当時の魯粛の利用価値とは、彼とツーカーな周瑜や劉備に統制を効かすことにあったと思う。(孫権が当時内心で魯粛をどれだけ信用していたかは怪しいものだけど。「胡散臭いブローカー風情」と思っていたとしても不思議ではない。)

その孫権も後に陸遜と語り合ったときに「劉備への借荊州は魯粛の失策だった」と言っている。そりゃそうだ。結局傭兵隊長に過ぎなかった劉備に独立され、貸した荊州をほぼ武力で奪還しなければならなかったのだから。

結局のところ孫権が魯粛を評価しているのは、自分が帝王となることを彼が予言していたから、に尽きる。

魯粛は周瑜の周旋によって孫権に目通りした際に、

私がひそかに推しはかりますに、漢の王室の再興は不可能であり、曹操もすぐには除き去ることができません。将軍さまにとって最良の計は、江東の地を足場に鼎峙しつつ、天下のどこかに破綻が生じるのを注意深く見守られることでございます。(中略)長江の流域をことごとく占領してしっかりと保持したうえで、帝王を名のられて天下全体の支配へと歩を進められる―これを漢の高祖がなされた事業なのであります。

陳寿編 裴松之注 井波律子訳『正史 三国志7』 筑摩書房 1993  (呉書・魯粛伝より)

と進言したらしい。尤もこれは孫権と魯粛の二人だけの酒席での話だというから、孔明の隆中対同様に真偽の程は怪しいもんである。

曹公が[赤壁で]大敗を喫して逃走したあと、魯粛がまっ先に帰って来た。孫権は、部将たちを集めると、魯粛を迎えに出た。魯粛が宮門を入ろうとして拝礼をすると、孫権は立ち上がって答礼をして、いった、「子敬どの、私が馬の鞍を支えてあなたを馬から迎え下したならば、あなたの功を十分に顕彰したことになるであろうか。」魯粛は小走りに孫権の前に進み出ると、いった、「不十分でございます。」人々はこれを聞いて、びっくりせぬ者はなかった。坐につくと、魯粛はおもむろに鞭を挙げつついった、「願わくば陛下のご威徳が全世界に及び、全中国を一つに纏められ、帝王としてのお事業を完成させられましたうえで、安車蒲輪(天子が賢者を召し出すときの特別の馬車)によって私をお召しくださいましたならば、はじめて私を十分に顕彰してくださったことになるのでございます。」

陳寿編 裴松之注 井波律子訳『正史 三国志7』 筑摩書房 1993  (呉書・魯粛伝より)

こちらは周りに証人がいるし、本当にそのようなことを言ったのかもしれない。

孫権は後にも、事あるごとに自身の即位(229年、黄龍元年)についての魯粛の功績を振り返って誉め讃えている。

要は、赤壁戦前での主戦論、そして早い段階での漢室復興の見切りという二つの大きな”ヤマ”を当てたことで、後に先見性のあった人物として孫権らに称揚されただけなのである。

赤壁戦前では、周囲の知識人から「ただのヤバい奴」くらいにしか見られていなかった魯粛は、曹操が撤退するや否や”まっ先に”孫権のもとへ帰ってくる必要があった。「ほら、俺の言ったとおりだろ」とドヤ顔で面目を施すために。赤壁から(孫権のいる)合肥への道中では、上のセリフを一言半句まで頭に叩き込んだことだろう。

世渡り上手、現代だったら有ること無いことまくし立てて面接官を魅了し就活戦線無双だったであろう魯粛も、『演義』では孔明と周瑜の知恵合戦に置いてけぼりにされる脇役に甘んじてしまっている。

それだけではない。孫権に提唱した「江東鼎峙 」の”意匠”までいつの間にか孔明の「天下三分計」 に奪われてしまった。

完全な道化役に貶められてしまった魯粛は、『演義』の心無い脚色に、泉下で地団太を踏んで口惜しがっているに違いない。

断想妄想三国志⑤

正史『三国志』と小説『三国志演義』との間を妄想が行き交うエッセイ。

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複雑怪奇、荊州の政情

赤壁の戦いは、周瑜や龐統、孔明ら荊州・江東の人士らが策略を以てあっぱれ曹操の大軍を打ち破る 『三国志演義』の圧巻の一つになっている。また水面下に進行する、孔明と周瑜との互いの才智を掛けた駆け引きも面白い。

赤壁の戦い後、 両者の角逐は孔明の勝利という形で終わる。曹操撤退後の荊州の南郡(なんぐん)に拠る曹仁(そうじん)と、これを攻めあぐねる周瑜を尻目に、孔明は隙をついて趙雲に南郡を奪わせてしまう。漁夫の利の荊州を得て、劉備陣営の飛躍がここから始まるのである。

正史でのこの頃の劉備と孫権・周瑜の関係は複雑怪奇、そして胡乱。

ただ結論めいたことは、風篁楼というサイトの管理者”いづな”さんが「三國志修正計画」で指摘されている。

孫呉にとっての劉備は極めて独立性の高い傭兵に過ぎません。夏口に到達した時点での兵力が、先主伝の通りに万余だったとしても、その兵力を養う資は無く、同盟と呼べるような関係は孫権との間に成立しません。諸葛亮が孫権と交渉したのは劉備の兵に食い扶持を与える事で、赤壁の褒賞は傭兵契約の更新と、荊南経略という実務の提供でしょう。

いづな ”風篁楼:趣味の東アジア史抄事典 三國志修正計画(呉書周瑜魯粛伝)” <http://home.t02.itscom.net/izn/ea/index.html>

正史上では、赤壁の戦い後の建安14年(209年)頃、劉備陣営が荊州南部一帯を手中にするに至って尚、劉備と孫権との関係は対等でなかったと見た方が良いと私も思う。

  • 曹仁の籠る江陵城を攻めるときに、劉備と周瑜が互いの兵を貸し合う。(呉書・周瑜伝の裴松之注『呉録』)
  • 荊州安定後、劉備はわざわざ孫権の本拠地・京口に赴く。(蜀書・先主伝)
  • 孫権に対して荊州の都督になりたいと申し出る。(呉書・魯粛伝)
  • その際、周瑜は孫権に対し「劉備以梟雄之姿、而有關羽・張飛熊虎之將、必非久屈為人用者」(劉備は野心のある英雄であって、関羽や張飛といった勇猛な武将を率いているから、必ず人の下に屈して命令に従うような人物ではない。)と言っている。 (呉書・周瑜伝)

劉備が孫権や周瑜から独立した”第三極”だったとしたならば、これらの『三国志』本文や注釈の記述は違和感がありすぎる。これらを整合的に解釈するためには、劉備が(少なくとも建前上は)孫権陣営の傭兵隊長に過ぎなかったと考えるよりない。

半生を寄食客居で過ごしてきた劉備のことだから、孫権にも頭を下げることなんてヘッチャラだったに違いない。

赤壁の戦い前後、合肥の戦線で手一杯だった孫権にとってみれば、荊州を手に入れた周瑜や劉備が自身の統制から離れて独立不羈の第三勢力へと成長していくのを恐れていたはずだ。

実は劉備が京口の孫権を訪れたとき、

  • 周瑜は先の発言に加えてさらに 、「劉備を呉に留めて飼い殺しにして、自身(周瑜)が関羽や張飛らを率いて天下統一を成し遂げよう」という献策を孫権に対して行っている。(呉書・周瑜伝 )
  • 孫権は「北方には曹操が健在だから、多くの英雄を手なずけなければ」とそれを聞き入れない。
  • 荊州に帰還することになった劉備は、別れの宴席にて孫権に「周瑜はいつまでも人の下に仕えてはいませんよ」と不穏な言葉を残す。( 呉書・周瑜伝 の裴松之注『江表伝』 )

と、孫権・劉備・周瑜が互いに牽制合戦を演じている。そもそも孫権が先だって妹を劉備に娶せて修好を確認したのも、周瑜への警戒あってのことだろうし。

この複雑な三者の関係があってこそ、これに輪をかけてミステリアスな、というか胡散臭さ芬々のメッセンジャー・魯粛に暗躍の余地が生じるわけだ。

(次回へと続く)

断想妄想三国志④

正史『三国志』と小説『三国志演義』との間を妄想が行き交う読み切りエッセイ。

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孔明と魏延

『三国志演義』上の魏延は、関羽が荊州の長沙(ちょうさ)に攻め寄せた際、城内で反乱を起こして長沙太守の韓玄(かんげん)を殺害し、関羽に投降したことになっている。

関羽がお目通りさせるべく魏延を連れて来ると、諸葛亮は引きずり出して斬れと、衛兵に命じた。劉備が驚いて諸葛亮に尋ねた。

(劉備)「魏延は手柄こそあれ罪はない。軍師はどうして殺そうとされるのか。」

(諸葛亮)「その禄を食みながら主君を殺すのは不忠です。(略)私の見たところでは、魏延は頭のうしろに反骨(突き出た骨)がありますから、先々必ず謀反するでしょう。だから先に斬って、禍根を断つのです」

(劉備)「この男を斬れば、降伏した者たちが自分も危ないと考えるだろう。どうか軍師には許してやってもらいたい。」

(諸葛亮)「今しばらくお前の命を助けてやるから、忠義を尽くして主君にご恩返しせよ。二心を懐いてはならぬ。もし二心を懐くことがあれば、私はどうあろうともおまえの首を取るぞ」

井波律子訳『三国志演義(二)』 講談社 2014

『演義』は、「君臣の義を分かりやすく押し広める」道徳小説なので、不忠をはたらいたものは、忠臣の鑑のような諸葛亮に容赦なく断罪される。

かつそれを利用しながら、人相観としての孔明のミステリアスさを演出しつつ、後の魏延の諸葛亮に対する反目の伏線も張る。『演義』の巧みなプロットの一つだ。

正史では?

魏延は劉備にかなり厚遇されていたようだ。

益州侵攻の際には一部隊長だったにも拘らず、手柄を積み重ね、建安二十四年(219年)に劉備が漢中王になった際には、督漢中・鎮遠将軍・領漢中太守に抜擢された。荊州以来の新参家臣だったのに、宿臣の張飛をかわして一躍対魏の前線司令官になったわけだ。大出世である。

劉備から直に漢中を任せされたという自負からも、 北伐時に自分よりも軍事キャリアの短い孔明の丞相府の言いなりになるのは耐えられなかったのだろう。魏延は常に孔明とは別行動をとりたいと願い出たが、許されず、臆病な孔明を恨んでいたらしい。

割と劉備の寵臣・宿臣に対しては「気遣いい」な孔明のことだ。荊州失陥から夷陵の敗戦、劉備の病死で立て続けに古参の軍府が壊滅した後、彼にとっても魏延は最後の”目の上の瘤”だったかもしれない。

そういう正史上の材料を、『演義』側も抜け目なく利用する。

第一次北伐で孔明と別行動を取って、夏侯楙(かこうぼう)の守る長安を急襲したいと申し出た『魏略』のエピソードはそのまま所収されている。

これに加えて『演義』では、箕谷で孔明の命令を聞かずに進撃して伏兵に遭った挙句陳式に罪をなすりつけたり、上方谷の戦いで孔明に司馬懿もろとも焼き殺されそうになって怒り狂ったり、気の毒なほどに魏延の驕慢さと不平っぷりを示すフィクションが盛り込まれている。

極めつけは孔明最後の北伐、五丈原陣中のくだりである。

孔明は天文を観察して自身の寿命が長くないことを知るが、姜維の勧めに従って、余人を退けた祭壇で七日七晩延命の祈祷を行うことにした。祈祷は六日間順調に進んでいたが、翌七日目、魏軍の襲撃を報告しに魏延が孔明のもとへズカズカとやって来て、祭壇の灯りの一つを踏み倒して消してしまう。孔明はついに自分の寿命が尽きたことを悟ったのだった。

もちろんこれもフィクションなのではあるが、まるで魏延が孔明を殺したことになっている。

劉備への仕官から孔明の死に至るまで、『演義』は魏延の不義の吹聴に全く余念がない。

もう一度正史に戻ろう。

五丈原陣中での孔明の没後、魏延は継戦を主張するが、他の将領たちはそれに従わず早々と撤退してしまう。勇猛な叩き上げ軍人・魏延と孔明の補佐官( 丞相長史)の立場にあった楊儀(ようぎ)との間の統帥権継承争いは結局楊儀の勝利に終わり、配下の士卒にも見放された魏延の進退は極まり、馬岱(ばたい)に斬り殺される。

大黒柱・孔明を失った直後にもかかわらず、結局魏延のクーデターはさして大規模な騒乱に至らなかった。迅速な丞相府の動きの背後には「魏延が従わない場合は、彼だけ残して撤退して良い」という、死に際の孔明の指図があった。

さすがは組織統治のプロフェッショナルの孔明だ。自分の死後の紛争を察知しての周到な対応に、その深謀遠慮ぶりが表れる。

「死せる孔明」が走らせたのは、仲達(司馬懿)ではなく魏延だったというべきかもしれない。