正史『三国志』と小説『三国志演義』との間を妄想が行き交う読み切りエッセイ。
不定期に配信され、断りもなく終わると思いますがご容赦ください。
孔明の隆中対(りゅうちゅうたい)
隆中対というのは、劉備があの有名な三顧の礼をもって隆中の諸葛亮孔明を訪れた際に、孔明が披歴したアドバイスのことである。
その内容は正史『三国志』の蜀志・諸葛亮伝にもキッチリ所載されている。
もしも荊州と益州にまたがって支配され、その要害を保ち、西方の諸蛮族をなつけ、南方の異民族を慰撫なさって、外では孫権とよしみを結び、内では政治を修められ、天下にいったん変事があれば、一人の上将に命じて荊州の軍を宛・洛に向かわせ、将軍ご自身は益州の軍勢を率いて秦川に出撃するようになさったならば、覇業は成就し、漢王朝は復興するでしょう。
陳寿編 裴松之注 井波律子訳『正史 三国志5』 筑摩書房 1993 (蜀書・諸葛亮伝より)
実はこの献策内容自体には、『演義』もまったくと言っていいほど脚色を加えていない。
そのこと一つを取っても、史実として本当にこの献策が隆中で行われたものかどうか、芬々と怪しい香りが漂ってくる。
まず、話が出来すぎている。「南方の異民族を慰撫、孫権とよしみを結ぶ、内では政治を修め、、、」孔明のその後の事績を完璧になぞるようなプランになっているではないか。
実は、魚豢 (ぎょかん)が著した魏の歴史書『魏略』では、三顧の礼などは存在せず、孔明の方から劉備を訪ねたことになっている。それに対して、陳寿『三国志』に注釈をつけた裴松之(はいしょうし)はこう反論するのである。
諸葛亮の〔出師の〕表に、「先帝は、臣を身分いやしきものとされずに、まげて自分のほうから訪問なさり、三たび臣のあばら家を訪れて、臣に当代の情勢についてご質問なさった」とあることからすれば、諸葛亮のほうから先に劉備を訪れたのでないことは明白である。
陳寿編 裴松之注 井波律子訳『正史 三国志5』 筑摩書房 1993 (蜀書・諸葛亮伝より)
いやいや、裴松之さんは甘すぎでしょう。
「出師の表」は孔明が書いたものなのだから、その中で三顧の礼が触れられているからこそ、むしろ捏造の可能性を疑わなければならないはずなのに。
べつにこれは私の創案でもなんでもなくて、高島俊男さんという史家が既に指摘している。
それにだいたい(隆中対のときに:筆者注)「人ばらいをして言った」と陳寿は書いてある。二人だけの話なのである。それをいったいだれが記録して伝えたというのか。(中略)『三国志』を読んだ人ならだれでも感じるにちがいないことであるが、この史書は、事実、ないしは事実の経緯についての記載がいたって不備である。そのくせ、というか、そのかわりに、というか、人物の発言の記載はむやみに詳細である。
高島俊男『三国志 きらめく群像』 筑摩書房 2000
ひとまず荊州・益州を足掛かりに曹操・孫権と「天下を三分」し、機を見て二路から曹操を討つ、という青写真は、その後の情勢からなし崩し的に思いついたものなのだろう。盟友の呉の魯粛が夙に「漢室の再興は不可、江東に鼎峙して、、、」とか孫権に献策しているから、ひょっとしたら孔明が彼から得た着想かもしれない。(魯粛の孫権への献策も同じ理由で怪しいもんではあるけれど。)
ともあれ、隆中での献策は事実でなかったとしよう。
孔明の凄いところは、こういうエピソードをでっちあげて「出師の表」の北伐プロパガンダを補強するために活用したところだと思う。
「北伐は先主(劉備)が隆中を訪れたときからの構想であって、遺命でもある。」 (出師の表にそこまで直接的には書かれていないけど)
北伐の意義、自身の統帥権の正統性を宣伝する手法としてこれ以上のものがあるだろうか。
「三顧の礼」「隆中対」「天下三分計」。
蜀漢という国を一つにまとめ上げたばかりか、天才軍師諸葛孔明の事績を称揚するキャッチーなフレーズとして、これらは『演義』の力も借りながら後世まで人口に膾炙することになる。これこそが、セルフプロデュースに巧みな「孔明の罠」だったのではないだろうか。
もし孔明が今の時代を生きていたら、「あの時先主(劉備)様はわたくしに、、、#三顧の礼 #天下三分の計」などというツイートを一日三回は発信して、ン百万のフォロワーがついていたであろうことは間違いないと思うのだ。