正史『三国志』と小説『三国志演義』との間を妄想が行き交う読み切りエッセイ。
不定期に配信され、断りもなく終わると思いますがご容赦ください。
曹操のコンプレックスと関羽
義絶(義人のきわみ)関羽。
直情径行で酒の失敗をする張飛や、孔明の北伐にまで付き随い数々の豪傑と槍を合わせた趙雲に比べて、やや戦場での影が薄い関羽に 「三国志少年」だった私はそこまで惹かれなかった。
今「三国志で一番好きな人物は?」と聞かれたら、ベタに「関羽」と答えてしまう気がする。
惹かれるというより、この人物を巡る『三国志演義』のプロットの見事な展開に感心してしまうのだ。『演義』の物語は、劉備が死ぬまでは、関羽のために作られているのではないかとまで思えるほどだ。
とりわけ面白いのは、関羽、劉備、曹操の関係。この三人が関わるエピソードを以下簡単に記す。
曹操から仮に徐州を与えられた劉備は袁紹と組んで曹操に反旗を翻す。曹操は大軍で徐州に攻め寄せ劉備軍をコテンパンに破り、劉備の行方は知れない。義理堅い関羽は曹操に捕らえられても、元主君で義兄でもある劉備の恩を忘れられず、曹操に靡かない。そんな関羽に一層惚れ込んだ曹操は、彼に親切の限りを尽くすが、やはり関羽の気持ちを変えることができなかった。折しも曹操軍は袁紹軍と「白馬の戦い」で激突、ここで関羽は曹操軍の一将として袁紹配下の猛将・顔良と文醜を斬り殺す手柄を立てて、曹操への恩に報いたとして、所在の判明した劉備のもとへ向かう。曹操は結局関羽を引き留めるのをあきらめ、関羽と深い絆で結ばれた劉備への羨望を覚えつつ、路銀と錦の戦袍(ひたたれ)を贈って清々しい別れを果たすのだった。
以上の『演義』のエピソードには、史実に対するかなりの脚色がありそうだ。
では正史はというと?
一旦曹操へ降った関羽が厚遇を受けながらも劉備の旧恩を忘れず去っていったのは史実らしい。この話より遡って、劉備は関羽、張飛らとともに曹操のもとへ寄食していたときがあったのだが、そのとき、曹操は劉備も厚遇したようだ。出かけるときはいつも一緒、お酒飲むときもいつも一緒、という感じで。曹操はこのとき劉備に左将軍の位も与えている。
曹操は劉備と一緒に長い時間を過ごして、やはり内心で羨望を抱かなかっただろうか。彼は ( 曹操陵墓の発掘結果によると ) 身長155cmの小躯 でイケメンでもない。方や劉備は、
先主(劉備)は読書がそんなに好きではなく、犬・馬・音楽を好み、衣服を美々しく整えていた。身の丈七尺五寸(173cm)、手を下げると膝まで届き、ふり返ると自分の耳を見ることができた。口数は少なく、よく人にヘリ下り、喜怒を顔にあらわさなかった。
陳寿編 裴松之注 井波律子訳『正史 三国志5』 筑摩書房 1993 (蜀書・先主伝より)
容姿、佇まいという点では、劉備は曹操を圧倒していた。曹操には宦官の家の生まれというコンプレックスもあったし、武芸、兵法、議論なんでも器用にこなす一方で結構人には裏切られたりする。挙句、劉備にも裏切られた。
一方の劉備は何の教養もないのに、押し出しだけで関羽、張飛のような豪傑が慕ってくる。いくら親切にしても自分に靡かず、旧主劉備のことを忘れない関羽を前にして、曹操の自尊心は少なからず傷つけられ、嫉妬心は掻き立てられたに違いない。
小説『演義』における三者のドラマチックな人間関係は、決して荒唐無稽なものとも言えず、一定の正史の背景があるのだ。『演義』が「七実三虚」と呼ばれる所以だ。
尚、『演義』はこの後再び曹操と関羽とを邂逅させるドラマを用意しているのだが、これも結局関羽の義人っぷりと『演義』の巧みなプロットということに尽きる。徹底的に関羽の引き立て役となってしまう曹操に気の毒でもあるし、敢えて紙幅を興醒めに費やすことはせず、筆を措く。