海外の格闘技YouTubeにおける“こなれた”英語

前回の続きを書くためにネタを集めている過程で面白いYouTube動画を見つけました。
アメリカ人青年のシェイン君が格闘技のテクニック(小技)を軽快に紹介してくれる動画です。
個人的に彼の動画は結構好きで、前からちょくちょく見ているんですが、今日見た動画の中では特に多くの”こなれた”単語が使われていて、興味深かったのです。

そもそもパンチやキックを「打つ」って英語でなんて言うか皆さんご存知ですか?
実は「hit」でも「strike」でもありません。
答えは「throw(投げる)」です。
こう言うこなれた表現が、この動画には満載でした。
ここでいうこなれたとは、その分野で必要な感覚や考えを、専門用語ではなく日常的な単語で表現することです。

動画のタイトルは「あなたのフェイントが通じない5つの理由」。
で、その理由として「距離が遠すぎ」「相手の注意を引けてない」「無駄な動きが多い」「ためらっちゃう」「相手の動きにひるむ」を挙げています。

ところがここからが面白かったところ。
まず2つめの「相手の注意を引けていない」は、動画の中では「No respect(敬意がない)」と表現されています。
respectの直訳は「尊敬する」ですが、確かにもう少し軽く「一目置く」くらいのニュアンスでも使います。
また最近の格闘技界隈では、向かい合う相手には敬意を払うべいという哲学的・紳士的な考えも認められつつあります。賛否両論ありますが、少なくとも練習では必要な考え方でしょう。
だからここで相手の注意を引くことを、pay attentionではなくrespectという単語であえて表現することは、個人的にとてもしっくりくるものがありました。

また「無駄な動きが多い」は「Overselling」や「Bad sell」などと表現されています。
見ての通りsell(売る)が使われているので、攻撃をする自分が売り手で相手は顧客(市場)だと捉えていることになります。
確かに自分の攻撃が相手に当たるかは元来わからず、仕掛けによって当たる確率を高めていくのが打撃系格闘技です。
なので格闘技におけるやりとりを物の売れ行きに例えることは、なるほどな、という感じです。

ちなみに余談ですが、そもそも基本的なマーケティング理論そのものが「戦い」に由来しています。
第二次大戦の終結後のアメリカで、職がなくなった戦略系の将校が、企業に入った後に軍隊の発想を応用して広まった、という経緯があるためです。
例えば戦争でもないのに経営「戦略(Strategy)」という単語を使うのはその好例だと言われています。
私が格闘技と経営とに共通点が多いと言っているのは、こういうところにも要因があります。

話を戻して、最後の「相手の動きにひるむ」の項目。ここでは「Flinch or Bait」という表現が使われています。
Flinchはまさに「ひるむ」で、この項目以外でも動画の中で頻繁に出てくる単語です。これはそのままの意味。しかし一方のBaitは「餌」という意味です。
要するに相手の動きに後から対応するのではなく誘って打たせろと言ってるのがこの項目なのですが、それを「餌」と表現しているんですね。
恐らく釣りをイメージしているのだと思います。餌を仕掛けて、そこに食いついた相手を仕留める、という部分に共通の感覚を見出しているのでしょう。
日本語で言うとこれは「布石」ですが、どうも最近はそれを「撒き餌」と言う人も増えているようです。
もしかしたら外国人コーチから聞いたこの表現を、最近の日本人が借りているのかもしれません。

ここまで紹介してきた表現は、単語自体が新しいわけではないところが面白いところです。
その単語の本質的な意味を押さえた上で、使い方や使うシーンを拡張しているというわけです。
このようなまさに”こなれた”表現を、使えるか、わかるか、作れるか。
かつて語学を志した者としては、そういう意味での言葉のセンスがある人を羨ましく思います。

そして同時に、ある程度の経験者でも割と役立つような本格的なテクニックがこうして動画で広く配信されているあたりに、格闘技というスポーツそのものの成熟度と時代の変化も感じました。
そのあたりは次回、格闘技とメジャースポーツのくだりでも触れていきたいと思います。

※前回からまた文体が変わってる(だ・である→です・ます)ことに今気づきました。
 要するに「気分」なので、あまり気にしないで下さい笑

格闘家のYouTube進出に見るイノベーション創出

格闘家のYouTube進出が止まらない。ここ半年ほどで実に多くの国内選手がこぞってYouTubeデビューを果たし、それぞれのテクニックや日常などを投稿するようになった。
実際のところこれは格闘技に限った話ではなくスポーツ界、特にマイナースポーツ全般に共通して言える。コロナ禍によって時間が余ってしまったことや収入源の途絶が後押ししたことは明らかだ。

ところがこのYouTube、本業によって知名度が高い人でも、それを以てエスカレーター式に成功できるかというと、そうでもなさそうだ。YouTubeで人気を獲得するには、何か違うアプローチが必要なのだ。
今回はこの格闘家のYouTube進出について、現状を確認しつつ、戦略を考えていきたい。

YouTubeでの「成功」とは?

スポーツ選手のYouTube進出の目的は基本的に副収入の獲得だが、YouTubeの報酬形態は単純なようで複雑だ。概説すると広告の表示回数やスーパーチャット(投げ銭)の総額ということになるが、詳細は公開されていないし、バイトの時給のような比例計算でもないようだ。従ってYouTubeで得られる収入は、直接的に定量化できないので、客観的に成否を測る指数に使うことは難しい。

なのでここではYouTubeでの成功をチャンネル登録者数で測りたい。
動画の再生回数という指標もあるのだが、これだとと古参YouTuberの方が投稿動画の数が多さから新参よりも有利になり、土俵が不平等な比較になる。チャンネル登録者数であってもそのバイアスは働くが、いくぶんマイルドだろうし、単に動画を見るよりも一歩進んだアクション(登録)の数という性質を鑑みても、この数字で議論する方が実態に近いだろう。

格闘家のYouTube進出の現状

「格闘技」にタグ付けされているYouTubeチャンネルから、登録者数の多い順(2020年5月時点)に25個ピックアップしたものが下表である。
ここからわかることはシンプルで、「朝倉未来(あさくら みくる)」の突出である。

朝倉未来は日本の格闘技プロモーション『RIZIN』を主戦場にする総合格闘家だ。一目してわかる通り1人だけ100万人を軽く超えている。第二位の「KAI Channel」は朝倉未来の実弟・朝倉海(かい)のチャンネルだが、実にダブルスコアだ。また更に下位にあるチャンネルを見ると選手個人はおろかプロモーション(団体)や企業のチャンネルすらも押さえつけての堂々1位。まさに圧倒的な強さと言える。

朝倉未来のチャンネルの強さは格闘技の枠に留まらない。サッカーや野球を含めたより広範の「スポーツ」というタグ付けで順位を見ても、直下にいるJリーグ公式チャンネルをやはりダブルスコア(54.9万人)で押さえて堂々1位。ちなみに個人チャンネルで朝倉未来に続くのはダルビッシュ有の49.5万人だ。

更に驚くべきことに朝倉未来には「サブチャンネル」が存在する。サブチャンネルとは自身の本来のチャンネルとはやや嗜好の違う動画を投稿するためにもう1つアカウントを設けて開設するチャンネルのことで、朝倉未来の場合は加工度がやや低く緩い雰囲気の動画を投稿している。そのサブチャンネル「ふわっとmikuruチャンネル」にすら20.8万人の登録者数がいるのが朝倉未来なのだ。

従って格闘家のYouTube進出の成功のキイは、突出した強さを誇る朝倉未来のパフォーマンスを分析することで見えてくる。

朝倉未来がやっていること

朝倉未来の名をYouTube界で一気に押し上げたのは「喧嘩自慢との対決」シリーズだ。街の喧嘩自慢に自ら声をかけ対戦を求め、まず本当に来るか、来たらどのくらい強いのか、身を以て体験しようというものだ。街でたむろする“活きの良さそうな”少年たちにまるでスターバックスにでも入るかのようなカジュアルさで声をかけ、本当に集めて戦ってしまうというヤンキー漫画顔負けの展開に、多くの視聴者が反応した。
また全般的によく見られるのがいわゆる「ドッキリ企画」だ。自分の周囲と示し合わせて朝倉未来自身や周囲の人を驚かせ、その反応を見るというものだ。その中には自身のアンチを呼んでその眼前に現れるなど、肝の据わったものも含まれている。
そして現在最も視聴回数が多いのは「シバターをガチでシバく」という動画だ。これは人気YouTuberシバターとのコラボ企画で、シバターから対戦を申し込まれた朝倉が、文字どおり殴り倒すという内容だ。

この内容からわかることは、朝倉未来の動画が「典型的なYouTuberの手法を踏襲」していることだ。
いわゆる「やってみた」系の動画は人気YouTuberの動画のまさに典型だし、多くの人にとって「やったことがないのでどうなるのか知りたい」と思わせる適度なテーマ設定もYouTube動画の定石だ。ドッキリ企画などはYouTuberの常套手段だし、コラボ企画はYouTubeに限らず顧客層の拡大のためによくやられる手法である。

つまり朝倉未来のやっていることは、一見するとニュータイプの若者が革新的な発想と行動力で新しい可能性を切り拓いたかのように見えるが、本質的にはそこに突飛さはなく、前例のある典型的手法をフォローしているに過ぎない。

イノベーション=「新結合」

このように言うとあたかも朝倉未来が実は二番煎じのつまらない奴のように聞こえるかも知れないが、そこは明確に否定したい。なぜなら、これこそがイノベーションだからだ。

イノベーションという言葉は日本では多くの場合「技術革新」と訳され、世界の常識が一変するような新技術の登場を想像しがちだ。古くは火薬や羅針盤、少し前だと内燃機関やインターネット、いま可能性があるものならiPS細胞とか、そんなところだろうか。
しかし、イノベーションという言葉を唱え始めた経済学者のヨゼフ・シュンペーター(1883-1950)は、このイノベーションについて、必ずしも新しい科学的発見に基づく必要はないとしつつ、その本質を「新結合」と述べている。
曰くイノベーションとは“新しい組合せ(英訳:New Combination → 新結合)”によって生まれるもので、その対象は製品や技術のみならず販路・調達・人事など多岐にわたり、最終的に市場(消費者)にとって目新しい価値をもたらすものであれば良い、としている。シュンペーターはこのイノベーションを経済活動の原動力と位置付け、断続的に起きることを奨励した。

この考え方は日本のタピオカブームに当てはめるとわかりやすい。2019年に若者の間でタピオカがブームになったが、30代以上の多くの人にとってタピオカは「今更?」と思うほど新鮮味のない過去の商品だったはずだ。それが不死鳥の如く再度ブームを巻き起こしたのは、SNSとの新結合に他ならない。タピオカという既存中の既存製品と、SNSという(比較的新しくはあるが)既存の販路とが結合したことで、新しい経済活動を生んだ=イノベーションを起こした。
「何の技術革新も起きていないが、こういうのがイノベーションなんだよ」シュンペーターが生きていたらきっとそう言ったことだろう。

この観点で朝倉未来のチャンネルを見ると、「格闘家」としてのブランドや能力を「動画視聴者(非格闘技ファン)」という市場と組み合わせている。立派なイノベーションである。YouTubeにとって典型的なアプローチで攻めたからこそ発揮された新結合であり、二番煎じなどと誹りを受けるものでは決してない。

市場拡大マトリクスに見る朝倉未来の合理性

朝倉未来のYouTube進出について、既存の概念同士を組み合わせたというコンテンツ面での合理性は説明した。ではその“売り方”、つまり戦略はどうだろうか。ここではそれを「アンゾフの市場拡大マトリクス」に照らして考えたい。

アンゾフの市場拡大マトリクスは、事業を「製品」と「市場」の2軸で区切り、それぞれの象限で活動することの意味を明示したものである。

詳細は割愛するが、前提としてこれは既存事業を足場に事業を拡大するアプローチを念頭に置いている。また各象限での事業活動に戦略としての優劣があるものではない。唯一右下の「多角化」は、新しいことづくめなので難易度が高いとされているが、だからといって「止めろ」とはアンゾフは言っていない。各象限の意味を把握した上で、事業の実情に合わせて個別に判断しろということだ。

次に、格闘技界から見た市場観をアンゾフ・マトリクスに落と込んだものを見てみたい。この時の主語は「格闘技の試合(ファイトマネー)や指導での収入を主にしている人(選手)」と考えて欲しい。

ここで重要なポイントは「格闘技の既存市場は小さい」ことだ。格闘技はマイナースポーツであり、野球やサッカーと比べると世間一般の関心は低い。つまりファンが少ない。従って市場規模が大きくない。
その前提でマトリクスを俯瞰すると、まず朝倉兄弟以外の多くの格闘家が、規模が小さいはずの既存市場向けで活動していることがわかる。格闘家のYouTubeでよく見られるのは技術解説、試合の振返り、減量の工夫などだが、アンゾフ・マトリクスに照らして考えれば、どれも「戦い」の範疇の商品を、格闘技好き(せいぜいスポーツ好き)な顧客層に向けて発信している。まさにマトリクスの左上「市場浸透」だ。また一部では日常風景やフィットネスへの応用、格闘技術を使ったおもしろ動画なども見られるが、積極的に他市場を狙ったものとは言い難い。位置づけとしては右上「新製品投入」だろう。
これらの戦略自体が悪いとは言わないが、格闘技の場合はとにかく市場が小さいことを考えるべきだ。例えば競技人口が多い陸上競技の場合、桐生祥秀(100mで日本人初の9秒台を達成)のチャンネルは、市場浸透路線の動画しかほぼ投稿していないのに登録者数は6万人近い。同路線の為末大(400mH世界陸上メダリスト)も開設わずか1週間で登録者数が8000人を超えた。このような競技人口による“地力”は、残念ながら格闘技にはない。従ってYouTubeで大きく成功するためには下段の象限、即ち新市場に打って出るのが合理的だ。

だがこの下段=新市場への進出は冒険要素が大きいハイリスクな選択だ。とりわけ右下の「新製品×新市場」については、それをYouTube上で実施することは至難の業だろう。よって新市場で成功しようとすれば、狙い目は「既存製品×新市場」、すなわち格闘家としてのブランドや能力を、格闘技ファンではない一般的なYouTube視聴者に持ち込むことが必要になる。

ではその新市場での事業を極力スムーズに運ぶ方法はないだろうか。その方法の1つが、自身の製品をその市場の既存製品に似せることだ。既存のYouTube人気動画と似たような作り・企画の動画にすることで、一般的なYouTube視聴者は「いつも見ているカテゴリへのニューカマー」と見なすのだ。郷に入りては郷に従え。

おわかりかと思うがこれは朝倉未来がまさに実践していることだ。
実際朝倉未来は自身の著書の中でも「YouTube進出時には多くの人気YouTuberの動画を見て傾向を分析した」と言っている。やはり意識的に既存製品に似せていたのだ。彼がそれをこのアンゾフ・マトリクスを用いて考えたかどうかは不明だが、合理的な戦略だったと言えるだろう。

ちなみに「戦略(Strategy)」という単語は今や当然のように経営の世界で使われているが、言うまでもなく本来は軍事用語だ。そしてそれを最初に経営の世界に持ち込んだのがアンゾフ(1918-2002)だったりする。
戦いの世界からビジネスにやってきた朝倉未来のことを、同じく戦いの世界から用語を流用したアンゾフのフレームワークで分析するというのは、なかなか感慨深い。

朝倉未来の踏襲ではもう通用しない

朝倉未来の着眼や戦略は優れていた。では朝倉未来と同じ切り口で同じような動画を投稿すれば、同様にYouTubeで成功できるのだろうか。

答えはNoだ。それこそ二番煎じだからだ。

さっき朝倉未来のアプローチは二番煎じではないと言ったじゃないか、と言われそうだが、ここは一度イノベーションの定義に立ち戻って欲しい。イノベーションとは市場(消費者)に新しい価値を提供するだ。既にある価値を同じ市場で展開することはイノベーションではない。
またこれには実例もある。朝倉未来の実弟・海のKAI Channelは、未来自身が「レクチャーした」と豪語するだけあって動画の路線がかなり似ている。にも拘わらず登録者数が未来の半分以下である。かなり高いクオリティのものであっても半分以下なのだから、ここに更に同路線で攻め込んでも大した成功は見込めない。「朝倉兄弟みたいなやつのパチモンでしょ?」と辟易されるのがオチだ。
唯一、もしこの市場(一般的なYouTube視聴者)が今も大きく伸びていて、朝倉未来による供給が需要を満たしていない(更新がとても遅い、アクセス集中して見れない等)場合は、二番煎じであっても価値がある。多少質が悪くても満たされていない需要がそれに食いつくからだ。だが現状そうなっていないのは言うまでもない。

従ってこれからYouTubeで成功したい格闘家には、朝倉未来と“似て非なる戦略”が求められる。

これからの格闘家YouTuberは何をすれば良いか

では似て非なる戦略とは何だろうか。そこには無限の考え方があると思うが、個人的には朝倉未来のチャンネル登録者の顧客層が突破口になるように思う。
朝倉未来は自身の著書やインタビューでしばしば「登録者の9割以上が男性」と述べている。従って女性市場はほとんど取り込めていない。ということは格闘技による女性市場への訴求は未着手の狙い目である可能性があるのだ。

一方で女性に人気があるYouTube動画カテゴリは「料理」と「メイク」と言われている。となると、

「格闘家が教える、絶対に太らない減量スイーツの作り方!」
「女子格闘家が、試合中の汗でも崩れなかった鉄壁メイク教えます!」

こういった動画なんかは可能性があるのではないだろうか。

いずれにせよ朝倉未来の成功要因は;

  • 格闘家or自分という選手だからできることを
  • YouTubeでウケる形に組み替えて
  • 格闘技ファン以外に刺さるように発信する

この3つを脳裏に“ピン留め”した上で考えれば、色々なアイデアが出てくるのではないだろうか。

終)格闘技に新結合を

今回は、イノベーションは既存要素の組み合わせであること、格闘技界においては既存製品を新市場に持ち込むのが有効であること、その好例が朝倉未来であること、を述べてきた。

何度も言うように格闘技界は狭い。選手はみんな徹底した勝負の世界に身を置いて壮絶なトレーニングをしている稀有な人たちなだけに、狭い業界で世界が完結してしまうことは色々と勿体ない。ぜひ朝倉未来のように、さりとて二番煎じではない方法で、イノベーションを生み出せる選手や団体が今後増えて欲しいと思ってやまない。

格闘技を死ぬほど頑張った人が、格闘技以外の場所で大きく評価されることは、結構幸せなことだと思うから。

ちなみに、そう考えると私のブログ記事も格闘技と経営理論の新結合ということになるが、残念ながらそこに価値があるかはまだ不明。だから一連の投稿にはあまり戦略性を求めないで頂ければありがたい。
気長にやっているので、もし何か経済的価値を見出した方がいたら、連絡下さい笑

次回更新は6月10日頃、
『ある柔術家によって国籍への考え方を思い直した話(仮題)』
を予定しています。

カーフキックで考える「あなたの部下がなぜ『できない』のか」

きちんと説明した。ちゃんと教えた。なのになぜアイツはできないんだ?部下や後輩、同僚にそう苛立つことはないだろうか。
私はたまたま会社の中でも厳しいとされる部門にいて、その手の苛立ち・嘆息・ご指導を上司や先輩からまるで滝行のように浴びさせられる若手時代を過ごした。愛のムチと言えば聞こえはいいが、そのせいで私の前後10年の年次で先輩後輩がいなくなったのだから笑えない。
しかしその滝行の中でも私はずっと「仕事ができる・できないの前に、上司と話が噛み合っていないんだが」と感じていて、それが後のMBA進学や研究課題に繋がっていった。
そもそも私は十代の頃、学校で劣等生ポジションにいたり、道場で子供を指導する立場だったりした経験から「できない人をできるようにする」ことに元来興味があった。
そうした体験や経験が混ぜ合わさり、お陰様で今ではこの手の問題には自分なりに整理がついている。
今回はひとつ、思いついた例を使って考えをまとめてみたいと思う。

「カーフキック」できますか?

質問。
「あなたはカーフキックをできますか?
 2018年くらいから流行し始めたやつ。ありますよね。
 あれ、できますか?」

何のこっちゃと思われたかも知れないが、今回の話のスタートはここだ。
まずはあなたの実情に沿って、この問いかけに対する答えを考えてみて欲しい。

回答パターンX:「はい、できます」

1つ目の回答パターンは、できます、つまりYESと答えるもの。
いきなりで申し訳ないがこのパターンの人は今回その声を飲み込んで読み進めて欲しい。
この記事は「できない」人をどう教育するかというものなので…。
そしてこんなマニアックな技ができてこの記事を読んでいる人は、この先の話にも納得ができると思う。

回答パターンA:「か、かーふきっく…?なんですかそれ?」

気を取り直して。
カーフキックが何なのか知らない。これを読んでいる多くの人がこれに該当するのではないだろうか。
知らないからできない。できるも何もない。わからない。これがパターンAだ。

少し掘り下げると、ここには「知らないことは調べない」という原則が働いている。
カーフキックを知りもしなければ、それが何かを調べることはできない。無論やり方も調べられない。努力やセンスの問題ではなく、不可能なのだ。
従って、パターンAの人にいる人が自力で正解まで到達することは、まず無理だと思っていい。

回答パターンB:「蹴り方を知らないので、できません」

ではここでカーフキックが何なのかだけ説明を加えたい。
カーフキック(Calf Kick)とは格闘技の技の1つで、ふくらはぎを狙う蹴りのことを言う。主に相手のフットワークを殺すために用いる。
同じ目的では太ももを蹴るローキックが一般的だが、太ももより筋肉が少なくダメージ蓄積が早いふくらはぎを狙うことで、効率的にフットワークを殺そうという主旨の技だ。

さぁこれでカーフキックが何かはわかった。
じゃあ、カーフキック、もうできますね?

ところが多くの人はまだ「できない」と言うはずだ。なぜなのか。
多くの人がこう主張するだろう。「蹴り方を知らないからできません」。
これがパターンBだ。
要するに、その行為を知ってはいるが技術的にできない、ということだ。
「やったことないからできません」「あまり練習したことがないからできません」も同義と言える。

パターンBはパターンAよもり状況はシンプルだ。
目指すべき形はわかっているので、技術の習得に励めばいい。
この角度で、どこの部位を、どのくらいの速さで当てて…といった具合にトレーニングをすればいい。

回答パターンC:「気が進まないので、できません」

ところがそれでもカーフキックは全ての格闘技選手ができるわけではない。
カーフキックが何かもわかっているし、技術も習得していても、できない。それがパターンCの「心理的に気が進まないのでやりたくない」だ。
なんだそれ?と思われるかも知れないが、「実戦(試合)では」という枕詞が付くとピンとくるのではないだろうか。

「以前実戦で試してみたらドンピシャでカウンターを喰らってしまったので、自分に合わない気がしている」
「自分が得意としている間合いや技術とは相性が悪いと思う」
「(試合だとして)今回の対戦相手を崩すのに有効とは思えない」
こういった考えから、自分にはできないと判断してしまうのだ。

このように言うと自身の能力を過小評価している状態を想像しがちだが、自分の意思で不要と判断している場合も含まれている(むしろこちらの方が多い)、と考えて欲しい。

「できない」には「知識」「スキル」「マインド」の3要因がある

ここまでで何が言いたかったかと言うと、「できない」という状態には3パターンの要因があるということだ。
パターンが違うということは、その根底にある問題も違う。

  • パターンA:知らないからできない → 知識の問題
  • パターンB:技術的にできない → スキルの問題
  • パターンC:やる気が無い、不要と思っている → マインドの問題

そして冒頭の話に戻る。なぜちゃんと教えているのにいつまでもできないままの人がいるのか。
答えは簡単だ。「できない」ことの原因のパターンと、それに対する教え方のパターンが、食い違っているからだ。

先程のカーフキックの例を使うとこういうことだ。;

  • カーフキック自体を知らないのに、カーフキックがいかに有効かを説かれる(A⇔C)。
  • カーフキックを打つ身体の動かし方を知りたいのに、カーフキックとは何かを語られる(B⇔A)。
  • カーフキックを使わない自分なりの理由があるのに、威力のあるカーフキックの打ち方を教えられる(C⇔B)。

これでは受け手の問題は解消されないので、教える側の熱量もむなしく事態は進展しない。結果、受け手はいつまでたっても「できない」ままになってしまう。

なにも格闘技に限らない。むしろ仕事の現場の方がこういったことが多く起きているのではないか。

  • 作業の存在自体を知らなかったのに「周囲を見てよく考えていないからできないのだ」と怒られる(A⇔C)。
  • その作業の意味を知りたいのに「従前の通りやれば問題は起きないから」とマニュアルを渡される(C⇔B)。
  • 作業のやり方を知りたいのに、作業の結果がどう役に立つかを説明される(B⇔C)。

なぜわざわざ分類せねばならないのか

ここまでで述べた「できない要因を分類する」という考え方はなぜ一般的でないのだろうか。なぜ着目されずにきているのだろうか。少し考えたい。

考えられる原因の1つは、そんな分類をしなくても育ってきた人が今までいたことだ。
パターンが食い違うアドバイスを受けたとしても、受け手によってはそこから自分の問題に役立つように読み替えることができる。“咀嚼”と言えばわかりやすいだろうか。
しかしこの咀嚼ができるのは能力が高い受け手に限られる。大半の人はうまく出来なかったり、そもそも咀嚼するという発想がないので丸呑みして消化不良を起こすのが普通だ。
だが事実として少数の優秀者は咀嚼ができ、思惑通りに育つ。そのため教える側は往々にして「俺の言うことはうまく咀嚼すればわかる。その咀嚼は受け手の仕事」と割り切る立場をとる。結果、できない要因を深掘りするという逆ベクトルの考え方は劣後とされてきた。というわけだ。

もう1つの原因として、「考えさせる」を重視しがちな日本の価値観の影響も考えられる。
確かに世の中には自分の疑問に直接答える情報を得られないことも多い。そのためか日本では「自力で解決策を模索できるようになれ」という教育的な意図のもと、あえて断片的なアドバイスをして考えさせるケースがままあるように思う。
何にでも「道」としての価値を見出したがる日本人の性、とも言えるかもしれない。

だがこれらはいずれも、今の日本で最適解となることは少ないように思う。理由は単純で、今の日本は人口が減少傾向にあり、人材の取り合いになっているからだ。
咀嚼を受け手に求めることや「考えさせる」ことは、学習として難易度が高い。よって脱落者が出る可能性が上がる。しかしここで「多くの候補者の中から優秀な人材を選抜する」という思想や仕組みをとれば、それでも思惑通りに育った人材を得られる。その後ろには大量の屍があるのだが、とにかく人材獲得はできる。人口も業績も右肩上がりの時はこの考え方が合理的だ。それこそ高度経済成長期のように。
だが今はそうではない。これから人口が減少するのは明白だし、優秀な人材の流出機会も増えている。環境が変わったのだ。現代日本の企業や組織は「多くの候補から優秀者を選抜する」から「どんな人材でも速やかに一定レベルまで到達させる」へと考え方をシフトチェンジせねばならない。だからわざわざ「できない」をパターン化して分析するという手間をかけて、人材の収率を上げることが必要なのだ。

どうすれば「できる」ようになるのか

冒頭の問に再び戻りたい。きちんと説明しているはずなのにいつまで経ってもできない。そんな人をどうやって「できる」ようにするのか。
その答えは、実はここまででもう半分くらい出ている。

まず最初は「要因に3パターンあることを認識する」である。
この記事を読むまで、そもそもパターンがあること自体考えたこともなかった人が大半ではないだろうか。
3パターンあることを認識することで、見える景色が変わる。これを感じて欲しい。「なんでこいつはできないんだ?」から「こいつ、どれだ?」になるはずだ。

次は「パターンに分類する」だ。
具体的なアクションとしてはその人との会話や言動観察を通じて情報を集めて「これかな?」と推定していくことになるのだが、これは頭を使う。「できない」人にもプライドがあるので、知識がなかったとか能力が低いからとかいうイケテナイ情報を自らストレートに吐露することはないからだ。よってここは教える側が読み取らねばならない。複合の場合もあるので注意。
「そこまでしてやらないといけないの?」という声が聞こえてきそうだが、そうだ。そこまでしてやるのだ。こういうアプローチが現代の日本で求られていることを、改めて思い出して欲しい。

そして「パターンに合わせたアドバイスをする」。
パターンが食い違っている例について既述したが、意識しないと往々にしてこうなってしまう。そこを意識的に合わせにいくのだ。
作業自体を知らないならその存在から教える。技術がたりず足を引っ張っているなら補填するスキルを教える。やる気になってくれないなら価値観や判断基準を紐解く。
いずれも、受け手の問題がどのパターンなのかが明瞭なほど、適切なアドバイスが自然と出てくるはずだ。

最後に注意。「教える側は問題を『マインド』に求めがちなので気を付けろ」。
「できる」ようになっている人は知識・スキル・マインドを既に兼ね備えている。だがそのうち知識とスキルはゴールが明確なので、習得者にとってはどんどん新鮮味が失われていく。逆にマインドは人や状況によって変わるので、追求しても色あせない。そのためいざアドバイスする段になると、教える側は往々にしてマインドを中心に話しがちなのだ。咀嚼や「考えさせる」を好む人だとなおさらこの傾向が強くなる。
知識・スキル・マインドの3つには順序も序列もなく対等だ。だから意識的に「問題は知識では?スキルでは?」と問いを巡らせるくらいでちょうどいい。

例えばあなたが以前頼んだ仕事を部下がやっておらず、なぜまだなのか?と訊いた答えが「すみません、失念していました」だったとしよう。
こういう時に「たるんでいるんじゃないのか、気合い入れなおせ」とか言って奮起を促すのがありがちな展開だが、これがダメなやつだ。マインド因だと決めつけているからだ。
部下は「失念していた」という事実こそ述べたが、背景は不明ではないか。もしかしたら、その仕事はさっさとやるべきものだと知らなったのかもしれない。或いは仕事を捌く能力がまだ低いために、パソコンのように処理が“重く”なっているのかもしれない。もしそういことなのだとしたら、気合入れろとムチを入れても効果は知れている。
パンクして走れない車にいくらガソリンを注ぎ込んでも動かない。

終)石とダイヤとカーフキック

以上が私が行きついた「できない人をできるようにする」方法だ。
なにぶん経験則に基づくものなので客観性に欠けるのは否めないが、効果のある考え方であることは自負したい。
私の目から見れば、できない理由と助言とが食い違っているせいで行き詰っている人は本当にたくさんいる。そしてその多くは、教える側が合わせに行くことで本当に素早く解消する。
これを読んでいる人が今後「できない」人に出会った時、この記事のことを思い出してくれたらうれしい。こいつホントつかえねーなと思ったら、カーフキックだ。

最後に、武道家でありながら人材の教育や育成に熱心だったとされる少林寺拳法の開祖・宗道臣の言葉を紹介して終わりにしたい。

「世の中にダイヤの原石は少ない。
 だが、磨けばなんとかなる石は案外多い」


次回は5月30日頃
テーマは「格闘家のYouTube進出から見る『イノベーションの新結合』」
のアップを予定しています。

尿比重測定に見るしたたかなツーサイドプラットフォーム戦略【ONE FC】

シンガポールに拠点を置く総合格闘技プロモーション、ONE FC。発足当初はその明らかにUFCを意識した名前や粗削りな試合内容から烏合の衆のように扱われていたが、今やUFCと選手をトレードをするなど、業界トップのUFCへの立派な対抗馬として成長した。
そのONEが実は独特の階級制度を設けているのはあまり知られていない。単に体重の区切りが違うのではない。独特の計量方法を採用しているため、階級呼称に対して体重が全体的に“上振れ”している。
なぜこんなやこしいことをしているのか。今回はその戦略的意図を考察していきたい。

ONEの階級制

格闘技興行には階級がある。これは体重が重い方が必ず有利という格闘技の性質上、一定の区切りを設けないと競技として成立しないためだ。
階級の区分と呼称は各プロモーションの任意なので、その設定は戦略的な側面も持つ。例えば隆盛を誇ったPRIDEでは-73kg/-83kg/-93kg/無差別という階級が敷かれていたが、これは当時珍しい体重区分であり、選手の移動を制限する障壁(PRIDEに出る選手は外部に流出しづらい、外部からPRIDEに来る選手は対応しづらい)になっていた。
ところがONEの階級制はその中でも奇抜だ。PRIDEから時は流れて現代の総合格闘技業界では北米の階級区分が業界基準になっていることを鑑みると余計にONEは“ズレて”いる。下表を見てもらえれば全体的に“上振れ”していることがわかると思う。

ONE独特の計量:尿比重測定

ONEの階級が上振れしているのは「水抜き」と呼ばれる減量手法を禁止していることへの調整だとされている。

水抜きとは格闘技選手が計量をクリアするために一時的に体重を落とす手法で、サウナや半身浴で体内の水分を強制的に体外に出す行為を指す。計量クリア(主に試合前日)後に水分をとれば体重が戻るので、計量を通過した後に想定通り体重を戻せれば、計量時点よりもかなり重い体重(=有利)で試合に臨める。総合格闘技に限らずボクシングやキックボクシングなどでも一般的な手法である。
しかしこの手法は要するに自ら脱水症状を引き起こす行為に外ならず、健康には全くよくない。やりすぎて倒れたり、回復がうまくいかず病院に搬送されたりといった事故も少なくない。今や一般的な手法になってしまったために皆がやっているが、出来ることならやりたくないというのが選手の本音だ。
そしてこの水抜きへの抑止力としてONEが導入しているのが尿比重測定である。

尿比重測定の思想は簡単だ。水抜きをした選手は尿が濃くなる=比重が重くなる。だから尿比重に一定の基準を設ける。ONEでは体重とセットで尿比重を規定値以下にしなければならず、体重はクリアしても尿比重が超過すれば計量失敗と見なされる。
尿比重は(少なくとも今は)制御法が無いので、クリアのために選手は極力ナチュラルな状態で計量を迎えることになる。結果、尿比重検査があることで選手は過度な減量を敬遠できる、というわけだ。

冒頭に述べた「水抜き禁止への調整」とは、 ONEの階級呼称が、水抜きで体重を作る選手の当日の体重(=リカバリ後の体重)を想定して設定されている、という意味である。

尿比重測定のリスク

既述のように選手はできることなら減量はしたくない。健康に悪い(というか危険)からだ。それでもこの手法をこれまで排除できなかったのは、世界中のほぼ全ての選手が計量後の体重リカバリを念頭に置いて階級を選択するため、自分もそうしないと同等条件の相手と戦えないからだ。
そう考えると尿比重測定は、 全選手に平等にナチュラルシェイプでの計量を促すという点で秀逸だ。自分がナチュラルシェイプでも相手だけが水抜き→リカバリしてくると体格ハンデを負う、という問題が解消されているため、選手も同意しやすい。 なかなかの妙案と言える。

だが一方で興行の観点から考えるとこの尿比重測定はリスクが大きい。
まず尿比重もセットでクリアせねばならないということは、もし選手が計量に失敗した場合、 試合不成立(=試合をしない。最も観客が落胆する)の可能性を高めてしまう。普通は計量に失敗すると、一定時間を与えられ、その間に動いて汗をかくことで追加の水抜きをして体重を作るのだが、尿比重に規定があるとその手が封じられ、ほぼ打つ手がなくなるからだ。
また主流に反した規定であるため選手の新規参入を妨げる。水抜きをうまく活用している選手も世には多くいるわけで、そんな選手にとってはこの規定はリスクでしかない。
更には単純に費用もかかるだろう。曲がりなりにも医療機関に、しかも特注で出すのだろうから、その費用を安く見積もることはできない。

ONEは何故それほどのリスクをとってまでこの尿比重測定を導入しているのだろうか。「選手の安全(健康)を優先する」…確かに正論だが、それだけでここまでのリスクをとる殊勝な話だろうか。ボランティア団体じゃあるまいし。

ここで思い当たるのが「ツーサイドプラットフォーム」である。

ツーサイドプラットフォームとは

ツーサイドプラットフォームとはビジネスモデルの1つで、2つの異なる集団を繋ぐビジネスをする事業者が、意図的に片方の集団を優遇し数を増やすことで反対側の集団に対する価値を高め、プラットフォーム全体の価値を増幅していくものを指す。
文章で表現すると堅苦しいが、実はこれは「お見合いバー」を例にとるとわかりやすかったりする。

お見合いバーの仕組みは大体こうなっている。;
・女性は無料ないし割安でバーを利用できる。
・男性は割高な料金でバーを利用する。
・店は男女の出会いを促進するような運営をする(席替え、マッチング、個人情報管理など)
この不公平なシステムがなぜ成り立つのか。ポイントは女性に対する「無料ないし割安」という優遇措置が価値の増幅の足場になっていることだ。
女性を優遇することでまず女性がバーに集まる。女性が集まるということは男性からすれば素敵な女性と出会える確率が高まる。よって男性は割高でも料金を払う。男性が増えてくれば女性はますます店に行く。そして割高を承知で行く男性も増える。…といった具合で価値の増幅を図るのがツーサイドプラットフォームである。
もし仮にこの店が男女の料金を平等にしていたとしたらどうだろうか。来店動機に訴えるのは料理などストレートな方法になり、集客効果の増幅は期待できない。どちらがお見合いバーとして流行るかは自明だろう。

蛇足。いかにも簡単に見えるツーサイドプラットフォームモデルにも注意しなければならない落とし穴がいくつかある。その1つが「優遇サイドの設定」である。
優遇するサイドはどちらでも良いわけではない。集客の起点になるサイドをどちらにするか、見極めた上で優遇しなければならない。逆に言えば「金をとるべきサイドを優遇してはならない」ということになる。失敗するツーサイドプラットフォームビジネスはこの選択をミスしていることが多い。

ONEが描くツーサイドプラットフォーム

ONEが導入している尿比重測定。そこには選手の安全優先の思想があり、選手にとってもそれはWelcomeだった。
ということは、尿比重測定導入の本質は「選手を優遇すること」なのではないだろうか。確かに金銭的な優遇ではないが、裸一貫で稼ぐ格闘家にとって「身体のダメージを減らせる」は立派に優遇なのではないか。これが今回の話の足場になる。

もしONEが自身のことをツーサイドプラットフォーマーと捉えていたと仮定したら、その眼に見える逆サイドの集団は「観客」である。
ならば選手を優遇することによって観客の価値は上がるだろうか。答えはYesだ。「出場選手層が厚い」ことは観客にとって価値であり、プロモーションそのものの価値を高めることになる。
従ってここに「ONEが尿比重測定を導入しているのはツーサイドプラットフォームを構築したいから」という推論が立つ。

私が推測する、ONEが描くツーサイドプラットフォーム像はこうだ。
まず独特の軽量方法である尿比重測定を頑として採用することで、選手に対し低リスクで試合ができると優遇する。それを目指して選手が徐々に集まってくる。するとONEへの出場選手層は厚くなるし、有名選手も移籍してくるようになる。試合のレベルも上がる。すると観客はどんどんONEを見たくなる。有名選手や応援したい選手が増えることは観客にとってのONEの価値を上げる。そうなれば資金力もネームバリューも拡充され、在野や他団体の選手もONEに目を向けるようになり、尿比重測定に伴う健康リスク低減も相まって、ONEで戦う選手がまた増える。すると観客もまた増える。…といった具合である。

実際ONEは尿比重測定の導入のみならず選手の医療サポート体制全般に定評がある。複数の日本人選手が、試合後の病院治療の手配の周到さに感謝するコメントをしている。 日本と比べても良いと言わせるくらいなので相応のコストをかけているのだろう。 となればONEは選手の安全や健康に戦略的に投資している可能性が高い。尿比重測定がその一環だとしても何らおかしくないだろう。

なぜツーサイドプラットフォームなのか

ではなぜツーサイドプラットフォームなのだろうか。世の中には数多のマーケティグ戦略があるし、ショーイベントとツーサイドプラットフォームの組み合わせはメジャーではない。なのにONEはなぜツーサイドプラットフォームを採用したのか。
その答えは現在の総合格闘技界の市場環境にあると考える。具体的には「選手の供給過剰」と「チャレンジャー不在」である。

1)選手の供給過剰

総合格闘技の業界トップはアメリカのUFCだ。メインカードの前に前座部門を(ナンバーシリーズなら2段階も)設ける大会を月に複数回開催できるのだからとんでもない選手層の厚さである。UFC出場経験ありというだけで他団体で推されるほどにブランド力も強い。パイオニアが全力疾走し続けた結果だ。
ところがそのUFCとて所属選手の処遇には悩まされている。理由は簡単だ。選手が“つかえて”いるのだ。

UFCの興行はメインマッチを頂点に概ね全12~13試合で組まれる。仮に13試合で計算すると1興行あたりの出場選手は26人。年間30大会開催するとして年間のべ780人が試合に出場することになる。
こう聞くとかなりの選手を捌けそうに聞こえるが、実は違う。まず選手は年間に2~4試合する。つまり1年間で試合に出るのべ780人はその1/2~1/4の人数で構成されている。間をとって1/3なら260人しかいないことになる。
これでもまだ多そうに感じるなら階級の概念を思い出してほしい。UFCでは男子8階級+女子4階級=計12階級を設けている。従って260人と言っても1階級当たり平均21.66人しか選手を抱えられないことになる。
これは少ない。日本だけでも総合格闘技ジムは3桁はあるだろうに、世界中のジムからの選手の“供給”を捌くには到底足りない。毎月複数回の大会を開けるUFCをもってしても、だ。

つまり総合格闘技業界は、業界トップのUFCが非常に強い地位を築いている一方で、選手の供給過剰に陥っており、有名・有望な選手でもUFCからリリースされたり、非UFC系でも十分強い選手が在野にいる可能性が高い。そのため選手にとって魅力的な条件を提示することは、大物を獲得できる可能性を上げる。従って選手優遇を起点とするツーサイドプラットフォームはこの環境をうまく利用できる妙手と言える。

2)チャレンジャー不在

ここで言うチャレンジャーとは「コトラーの競争地位戦略」を念頭に置いている。これは簡単に言うと;
・ある市場の中でプレイヤー企業は4つに大別できる。
・1つ目は「リーダー」。市場を牽引し、その市場の基準や定石を作る者。基本的に1社。
・2つ目は「チャレンジャー」。リーダーに挑む対抗馬。リーダーと同じ市場を狙うが、リーダーがやっていない戦略を打つ。
・3つ目は「ニッチャー」。リーダーと同じ戦略をとるが、リーダーの手が及んでいない特殊または小規模な市場を狙う。
・4つ目は「フォロワー」。戦略も市場もリーダーのコピー。独自性もプライドもあったものじゃないが、オコボレGetに徹するため資金効率が良い。

総合格闘技業界において現状のリーダーは間違いなくUFCである。そしてそれ以外の団体に有力なチャレンジャーがいない。2番手Bellatorや3番手PFLはいずれも「UFCみたいなこと」で二匹目のドジョウを狙うフォロワーだ。日本のRIZINはやや路線が違うが展開がグローバルではないのでせいぜいニッチャーだろう。つまりこの市場にはプレイヤーはたくさんいるがチャレンジャーが不在だった。
従ってグローバル展開をするONEがチャレンジャーとして振舞う覚悟を決め「UFCと違うこと」をやることは、理に適ったこととして市場に歓迎される。具体的には思惑通りに目立つ地位を築くことができる。ONEのツーサイドプラットフォーム構築にはこういった市場環境も影響している。

ONEの課題

このようにツーサイドプラットフォームで合理的に事業を進めているONEだが、その戦略は決して盤石でも万能でもない。選手優遇起点のツーサイドプラットフォームで高められる価値には限界があるからだ。
理由は単純。UFC同様、早晩選手を捌ききれなくなるため。
従って有力・有望な選手がある程度集まったら、違う戦略にシフトしていく必要がある。

では違う戦略とは何だろうか。それはUFCが打てない施策を有効に打ち、名実ともにUFCへのチャレンジャーになることである。
キイになるのはUFCはじめ世界の多くの団体が採用している「ユニファイド・ルール」だ。詳細は割愛するが、現在アメリカで総合格闘技の興行を打つにはこのルール(試合形式)に則らないといけない。そしてそのルールを作ったのは他でもないUFCだ。UFCにとってユニファイド・ルールは生命線でもあり呪縛でもある。ONEはこのユニファイド・ルールの裏をかくのが上策だろう。
そうして見ると、ONEがやっている「興行ごとにリング戦とケージ戦が混在」「オープンフィンガーグローブを付けたキックボクシング部門の挿入」は理に適っているように見える。

ONEはかつて確かに烏合の衆だった。しかし今となっては他社ではなかなかできない大胆な打ち手でチャレンジャーになろうとしているのも事実。そしてそのキイとして周到な事業戦略が垣間見えるように思う。というのが今回の話。
格闘技もビジネスも原則として頭のいい奴が勝っていく。これからのONEの施策に注目したい。

なぜK-1の興行はコロナ禍でも決行されたのか【K-1】

3月22日、立ち技格闘技団体K-1によって「K’FESTA.3」が開催された。さいたまSAでの1万人規模の興行は、コロナウィルス感染拡大による自粛ムードに完全に逆行して開催された。
前日に埼玉県知事が「自粛要請を聞き入れてもらえなかった」と表明したことから、翌日のスポーツ紙やワイドショーでは非難の声が上がった。だが同時に「英断」とする声もある。音楽イベントなど他の大型ショービジネスや、他の格闘技プロモーションが興行を取り止める中、なぜK-1は決行したのか。

感染拡大懸念は当然あった

言うまでもなく開催には感染拡大の懸念があった。人が集まる時点で懸念があるし、応援で声も張り上げるのだから尚更だ。タイではラジャダムナンやルンピニーといった有名ムエタイスタジアムでコロナウィルスが感染拡大したと言われている。感染拡大は当然考えられる懸念であった。
しかし「だからK-1は愚かな奴らだ」と結論付けるのは早計に思う。そういう単純化は好きではないし、多分事実でもない。これだけ明らかなリスクテイクをK-1はなぜしたのか。なぜK-1は火中の栗を拾いに行ったのか。そんな観点から考察をしてみたい。

K-1=中小企業

K-1はネームバリューが強いので、よく知らない人はあたかも世界的な巨大組織と思われるかも知れないが、今の実態は中小企業と思えばいい。
かつてゴールデン帯を賑わせた華やかなK-1は2012年に経営破綻しており、そのブランドや映像使用権はファンドや他団体に売却された。そのK-1ブランドを日本の有志が資金を募って再び使用可能にし、K-1 JAPAN GROUPとして興行を打っているのが今のK-1である。一時はそのコントラストを強調すべく「新生K-1」を名乗っていた。
JAPANと銘打つだけあって旧K-1と比べると規模は各段に小さく、ゴールデン帯の地上波放送も無い。開催地も今や全て日本国内のみだ。従って現在のK-1とは、格闘技イベントを打つ中小企業であり、今回のイベント決行問題の本質は、中小企業におけるリスク判断の問題であることがわかる。
(実際には現在のK-1は実行委員会形式をとっているが、固定の運営会社もいるので、いち中小企業と考えるのが良いと思う)

海老で鯛を釣るビジネスモデル

格闘技興行は固定費型のビジネスである。設備投資がほぼないので固定費型という表現に違和感があるかも知れないが、会場費用やファイトマネー等の経費は「来場者数に関係なく一括でかかる費用」なので固定費である。客足が鈍いから仕入れを減らすといったことができない、と言えばわかりやすいかも知れない。従って設備投資こそ伴わないものの損益分岐点が高い(一定の売上に到達しないと利益が出ない)、だが分岐点を越えれば利益も大きい、という特性があり、健全な収益構造を得るためには損益分岐点を越えること、つまり客席をしっかり埋めることが重要となる。

だがこの話はあくまでも会場での入場料収入(ゲート収入)の話だ。実際にはそれ以外の収益源も考えられる。放映権料だ。
旧K-1ではこの放映権料が大きな財源になっていた。部外者なので具体的にはわからないがインタビュー等から推定するにファイトマネーは1人1試合に対し8桁に至ることもあった模様。ゲート収入でこれを賄うのは困難なので、やはり放映権料によるブーストが効いていたのだろう。しかしこれは放送してもらうことに莫大な費用がかかるハイリスクハイリターンの構えでもある。当時のK-1がこのリスクをとったのは、マス市場に進出したい思惑があったからだろう。そして一定の成功を収めたものの、最終的にはハイリスクの負の側面が表出し破産の道を歩んだ。
一方で現在のK-1はこの放映権料が安いものと推測する。既述の通りK-1の放送チャネルは深夜帯の地上波とインターネットテレビのabemaTV。ゴールデン帯の頃とは得られる金額が桁違いに低いだろうし、abemaTVは業績自体が2017年の開局以来一貫して赤字だ。以前のようにK-1へ潤沢な財源を提供しているとは考え辛い。むしろabemaに関しては宣伝効果と割り切ってほぼ無報酬でやっている可能性すらあると見る。

興行の前に高額の固定費を支払うのに、放映権料など間接的な収入には以前ほど期待ができず、会場をきっちり埋めることでようやく利益が出る。K-1の興行ビジネスはまさに「海老で鯛を釣る」ようなものと言えるだろう。

K-1の目標は国内でのスモールサクセス

町工場のような中小企業が圧倒的な技術力で実は世界を掌握している。こんな話は美しいし素晴らしいが、実際のところそんな話を語れる事業は世に少ない。資本に勝る大企業との正面衝突は中小企業にとってやはり難しく、弱者なりの成功=スモールサクセスを目指すのが現実的だ。そもそも事業というのは存続しているだけで価値がある。よってこのような弱者の戦略は何も恥ではないし、むしろ「ニッチャー戦略」「差別化戦略」等の言葉で支持される上等な戦略だ。

現在のK-1もその例に漏れずスモールサクセスを目指している。旧K-1は強い資金力とコネクションを武器に立ち技格闘技というジャンルを世界のマス市場に訴求したが、今は資金調達が難しくなっているうえにGLORYなど大型の競合もいる。従来の戦略はもはや通用しない。その観点で現在のK-1の興行内容を見ると、明らかにマス市場への訴求を捨て特定市場にターゲットを絞り込み、ターゲットを確実に満足させる打ち手を揃えている。隆々としたグローバル組織にはなれなくとも、日本で確実に事業を続けていくという意思が感じられる。実際K-1 JAPAN GROUPは目標を「100年続く事業」と公言しており、全体的に整合性が感じられる。

<現在のK-1におけるダウンサイズの例>
●会場動員規模
  旧K-1:2~4万人、最大9万人 → 現K-1:0.5~1万人
●開催国
  旧K-1:半分は海外 → 現K-1:9割が日本、2014年以降海外開催なし
●提供チャネル
  旧K-1:地上波全国ゴールデン
  → 現K-1:地上波ローカル深夜帯、インターネットテレビ

「Kの箱庭」

K-1はしばしば「帝国」「村」「集落」等と表現される。その心は「閉鎖的」という意味だ。世界を標榜してはいるが開催地は日本だけだし、ある程度決まった選手で試合を回している感が否めない。階級間が狭いので行ったり来たりして対戦カードを回しているケースもある。外国人選手はたまに織り交ぜるスパイス程度で主食はやはり日本人選手。未知なる強豪の発掘を是とした旧K-1とはかなり違うし、最強を追求する格闘技の本質からすら外れていると言っても過言ではない。これだけを聞くと、スモールサクセスが目標とはいえ、大丈夫かと不安もになる。

ところがその効果として、K-1の興行は面白い。本当に面白い。狭い世界で選手のことがよくわかっているだけに会場も試合も盛り上がるマッチメイクを組みやすい。勝って欲しい選手がいればその選手が大体勝つ。どちらが勝つかわからない試合は接戦の好試合になる。自然、会場の熱もアツい。
格闘技はその競技柄アップセットがあるため顧客の満足度が低くなるリスクが付きまとう。それをほぼ完全に無効化しているのがブック(台本)を持つプロレスだが、K-1はブックなしにプロレス並みの満足度を試みていると言ってもいいだろう。閉鎖的だからこそ発揮できる強みがここにある。

グローバルに見えて実は閉鎖的に回る世界観によってターゲット顧客の満足度を上げる。これが現在のK-1のビジネスとしての要である。だから逆にその閉鎖性を崩す行動には拒否反応を示す。旧K-1時代からの功労者であるHIROYAや、その実弟でベルトまで巻いた大雅ですら、他団体との交流戦を試みたことでK-1から追放されている。次世代のホープとして大々的に売り出されていた平本蓮も同様に放逐された。2013年から始められたオフィシャルジム制がこの閉鎖性の強化に一役買っているものと思われる。

「帝国」「村」「集落」…。様々な表現が可能だが、周到な調整の末に純度の高い世界観を作っていることに敬意を表し、ファンも含めた閉鎖的な生態系をここでは「箱庭」と呼びたい。

K-1の判断は合理的な意思決定の結果

さてそんなK-1にとって今回の事態はどう映ったか。
大会を決行すれば感染拡大の可能性がある。大丈夫と言い切る術はない。
だがゲート収入を確保せねば利益が出ず事業が続かない。よって無観客試合という選択肢はとれない。
中止すればキャンセル料がかかってくる。会場であるさいたまSAは元より、設営業者等にも無償というわけにはいくまい。よりによって年間最大イベントのK’FESTAと重なってしまったことが今となっては恨めしい。
中小企業なので高額の負債には耐えきれない。中止は簡単だがひとたびハンドルが破産に向けば坂を転がるように一気に凋落だろう。
…ざっとこんなところだろうか。

K-1はこれら状況を総合して意思決定をするわけだが、ここではその意思決定をデシジョンツリーで考察したい。

※さいたまSAの利用料は10百万円(HPに記載あり)。ゲート収入はチケット価格の中央値×10,000人=150百万円で計算。広告宣伝費を売上予想の10%、ブランド使用料を同2%とし、ファイトマネーはゲート収入がある限りは支払うこととした。違約金は支払予定金額の100%。あくまでも部外者の推算。

デシジョンツリーには、自分の意思で選択できる分岐とできない分岐とがある。この観点で今回のツリーを見ると、後半は自分の意思での選択がほぼできない。従って序盤での選択にかかる責任が重い。難しい判断だったことがわかる。

そして各ルートを評価すると、経済合理性で言えば圧倒的に「決行する」に分があることがわかる。破産に繋がるルートが2つあるが、うち1つは自分の意思で選ばないことができるため、実際に危険性と考慮すべきルートは1つだけ、それ以外は生存が可能である。逆に「中止する」を選んだ場合、金額は見えているとはいえ巨額の負債を背負う恐れがあり、事業自体も存続できない可能性が高い。

定性的な評価を付け加える。
「決行」ルートにおける最悪のルートは賠償請求されることであるが、そもそも来場者は箱庭の住人だ。感染したからといって一転してK-1を責めるだろうか。可能性はゼロではないが、心理的な部分が大きいので、会場での真摯な対応でそのリスクは減らすことができる。仮に責を問う人が現れたとしても「K’FESTAがあったから感染した」という因果関係を証明することは難しいだろう。また「決行」ルートのうち次に厳しいCons.は「壮絶な批判を浴びる」だが、ドライに考えればこれは事業に直接影響しない。収入を奪われたり賠償を求められたりするものではないからだ。しかもそもそもK-1のターゲットはマス市場ではなく箱庭なので、ターゲット外のセグメント(普段K-1に興味がない人)から批判されても実業への影響は少ない。いつも何の報道もしないワイドショーや夜のニュースが俄かに騒いだところで箱庭の中には大して響かないのだ。
逆に「中止する」を選ぶとキャンセル料・違約金・チケット返金などが生じ、利益を直接的に圧迫する。特にチケットの返金は相当の重荷となる。「では返金しなければ良いでは?」という声が聞こえてきそうだが、さすがに返金しなければファンが離反するだろう。K-1にとってファン=箱庭の住人の離反は、箱庭の崩壊を招くため、絶対に避けねばならない展開である。従ってチケット代の返金はほぼマストと考えれば、巨額の金銭負担を抱えるルートしかないのである。

以上より、K-1にとって合理的な選択肢は「決行」であり、せめてその中で感染を可能な限り減らす対応をとる(マスク配布、体温測定など)のが最善の打ち手であったことがわかる。

合理的なら許されるのか?

このように述べると、いかにもK-1が自身の利益のために公益を犠牲にした、罪もない人々にウィルスを撒き散らす蛮行を強行した、と見られがちだ。だが果たしてその断罪は適切だろうか。
上記のように最も合理的な判断をしたとしても、壮絶な批判に晒される可能性は高かった。そうなっても金銭的なダメージは少ないとは確かに述べたが、そうは言っても人間だ。人でなしと言わんばかりの壮絶な批判に馬耳東風というわけにはいかない。家族がいればなおさらだ。精神的につらいに決まっている。平時なら絶対にしない判断だ。
それでもなお決行を選択した理由は何か。考えられるのは「経済死」である。

Twitterを見ていると、経済死、即ち収入がなくなることや巨額の負債を抱えることを軽く見る人が結構いるようだ。「人命と金は比較にならない」と鼻息が荒い。
しかしその認識は間違っていると思う。収入が途絶えて生活が立ち行かなくなることは現代においては普通に生命に関わる。
個人的な話で恐縮だが、自分には学生時代に一時期1食100円の生活をせざるを得なかった時期もあるし、マイナースポーツに携わっていたので実力に反して経済的に報われない悲哀も知っている。プロ格闘家の経済事情にも触れているし、今の仕事でも不採算部門の撤退現場を経験した。「金のない悲劇」がどういうものか、私には実感があるし、怖い。

もしかしたら伝わるかも、と思って例を挙げたい。
あなたは知人を招いて会費制のパーティを主催する。来場者は300人で確定、費用は会場代含めもろもろ290万円で支払い済。会費の1人万円/人も既に徴収しており、あとは開催するだけだ。
と、ここでコロナウィルスの騒ぎが起きた。こんな人数を集めることがリスキーなのは明らかだし、公益にもとることも明白だ。
この状況下でなおあなたは中止を即決できるだろうか。
…まぁ即決できる人もいると思う。
だがもし会費の返還が不可避だとしたらどうだろうか。変換する300万円はあなたが供出しなければならない。
更にもしあなたの手元の全財産が100万円しかなく、かつ中止すれば信用を失い今の仕事を辞めねばならないとしたらどうだろうか。
そしてもしあなたが独身ではなく妻と子供がいたとしたらどうか。あなたのみが収入源で、愛する妻と子供のライフラインが今あなたにしかないとしたら。
最後に、もしその憂き目に遭うのがあなただけではなく、一緒にやってきた仲間も巻き込むことになるとしたら、どうだろうか。
それでもなお公益を優先できるだろうか。この状況で私益の確保に走ることは悪いことなのだろうか。
この構図を「人命か金か」と単純化することは不適当ではないだろうか。どちらも人命の問題なのではないか。

この問題に絶対の正解はない。公益を優先することは間違いなく正解の1つだが、眼前に迫るもっと明確な脅威である経済死を回避するために利己的な行動をすることを誰が責められようか。典型的なトロッコ問題ではないか。
そしてこの「どれも正解」「どれも不完全」な状況下でなお、しかも従業員の運命を背負って決断を迫られるのが経営者でありリーダーだ。決断しなければならない以上はできるだけ良い決断をしたい。そのためには「合理的」であることは最低限必要だし、思慮深いリスク査定や、修羅の覚悟のリスクテイクも必要になる。そう考えれば今回K-1が取った一連の行動は、極めて合理的であり、覚悟を決めたものであった。
K-1の判断がベストだったかはわからない。だが合理的ではあった。公益と私益を天秤にかけて私益を選んだことは事実だが、それによって公益がどのようにどのくらい棄損されたかは測れない。そしてこの判断のお陰で生活が守られた人が目の前にいるとすれば、その事実は揺らがない。
正解がない中での難しい判断。進んでも戻っても地獄の厳しい決断。K-1の今回のこの決断には、ただただ「お疲れ様」と労いの言葉をかけたい。

修羅の覚悟に「自粛要請」という無責任

冒頭の通り、箱庭の興行が俄かに衆目を集めたのは埼玉県知事の“タレコミ”によるものだった。箱庭とはいえネームバリューがあるK-1だけにこのコメントはマスコミやSNSの恰好の餌食となった。普段K-1に見向きもしない、新旧K-1の違いも認識していないマス市場の住人が大いに吠えた。

しかしこの自粛要請とは要するに強制力のない申し入れだそうだ。詳細は割愛するが、単なる意見表明に近い。
K-1の判断には賛否両論があっていいと思うが、この自粛要請という打ち手には怒りを禁じ得ない。

既述の通りK-1の判断は合理的でアクションも一貫している。だから当事者でなくともきちんと分析すれば「相手が取り得る行動」として必ずノミネートされる展開だったはずだ。また県知事曰く「何度も話し合った」らしいので、決行の動機に経済的事情があることや、修羅の覚悟を決めていることもわかっていたはずだ。

その相手に対し「自粛要請」で臨むとはなんという蟷螂之斧か。そんなもので止められるはずがないじゃないか。本当に止めたいと思ったのなら、なぜ強制的に止める手法をとらなかったのか。なぜK-1の悩みの根源である経済的事情の解消に動かなかったのか。あるいはなぜ「絶対に感染者を出さない」ための手助けをしなかったのか。
確かにさいたまSAのキャンセル料免除を申し出たともされている。だがよく考えれば役務提供をする前に言っているわけで、ある意味で当たり前の、何の懐も痛まないノーリスクの提案だ。第一そんなものでカバーできる損失でないことは「何度も話し合った」ならわかるだろう。それなのにノーリスクの安全地帯から中小企業に爆弾を放り込むとは一体どういう了見か。

どんな企業や事業体にだって、慈善団体でない限り営利を追求する権利がある。そのために最も合理的な判断をしてくることは予想の範疇というかど真ん中だ。そのど真ん中の行動が自身の利害と一致しないことを挙げて批判を展開するとは、思慮の浅さと調整能力のなさを感じる。
今回の一件で最も努力を怠り覚悟が無かったのは、政治だ。

覚悟の果てに

修羅の覚悟で大会をやり切ったK-1。幸いにも現時点で来場が原因とされるウィルス感染拡大は報道されていない。マスコミは興味を次の獲物に移したようで、沈静化してきている。この結果から見てもK-1のリスク査定と判断は1つの正解だったと言えるだろう。

一方で今回の騒動で格闘技へのイメージを悪くした人もいるようだが、最初から会場にも来ないし格闘技に金も落とさない人なら雑音でしかない。それよりも今回の騒動を受けイベント業界への政府支援の動きが少しだが起きたことが有意義だと思う。今回K-1は開催を決行できたが、例えば数百人規模のイベンターは決行という選択肢をとれず、何の補填も得られないまま巨額の負債を抱える例が起きている。かつて経営判断を誤って破産したK-1という組織が、見事な判断によって他業種にまで光明を与えたのだとしたら、なかなかかっこいい話だ。

最後に、今回見事なディフェンステクニックを披露したK-1だが、オフェンスはどうだろうか。
今回の一件でK-1は箱庭をより強固なものにした。住人はより強く帰依することだろう。だが箱庭には、それをコンプリートしてしまうと次の手を打ちにくいというデメリットがある。ひとたびコンプリートしてしまったら、箱庭を広げるために一度壁を崩すか、それでも壁を崩さず心中するかしかない。そして今、箱庭のアイコンとも言える人物が、中から壁を叩き続けている。
壁を崩すか心中か。K-1が抱えるこの本質的な問題は、最大の危機を乗り切った今もなお箱庭を見下ろしている。