カーフキックで考える「あなたの部下がなぜ『できない』のか」

きちんと説明した。ちゃんと教えた。なのになぜアイツはできないんだ?部下や後輩、同僚にそう苛立つことはないだろうか。
私はたまたま会社の中でも厳しいとされる部門にいて、その手の苛立ち・嘆息・ご指導を上司や先輩からまるで滝行のように浴びさせられる若手時代を過ごした。愛のムチと言えば聞こえはいいが、そのせいで私の前後10年の年次で先輩後輩がいなくなったのだから笑えない。
しかしその滝行の中でも私はずっと「仕事ができる・できないの前に、上司と話が噛み合っていないんだが」と感じていて、それが後のMBA進学や研究課題に繋がっていった。
そもそも私は十代の頃、学校で劣等生ポジションにいたり、道場で子供を指導する立場だったりした経験から「できない人をできるようにする」ことに元来興味があった。
そうした体験や経験が混ぜ合わさり、お陰様で今ではこの手の問題には自分なりに整理がついている。
今回はひとつ、思いついた例を使って考えをまとめてみたいと思う。

「カーフキック」できますか?

質問。
「あなたはカーフキックをできますか?
 2018年くらいから流行し始めたやつ。ありますよね。
 あれ、できますか?」

何のこっちゃと思われたかも知れないが、今回の話のスタートはここだ。
まずはあなたの実情に沿って、この問いかけに対する答えを考えてみて欲しい。

回答パターンX:「はい、できます」

1つ目の回答パターンは、できます、つまりYESと答えるもの。
いきなりで申し訳ないがこのパターンの人は今回その声を飲み込んで読み進めて欲しい。
この記事は「できない」人をどう教育するかというものなので…。
そしてこんなマニアックな技ができてこの記事を読んでいる人は、この先の話にも納得ができると思う。

回答パターンA:「か、かーふきっく…?なんですかそれ?」

気を取り直して。
カーフキックが何なのか知らない。これを読んでいる多くの人がこれに該当するのではないだろうか。
知らないからできない。できるも何もない。わからない。これがパターンAだ。

少し掘り下げると、ここには「知らないことは調べない」という原則が働いている。
カーフキックを知りもしなければ、それが何かを調べることはできない。無論やり方も調べられない。努力やセンスの問題ではなく、不可能なのだ。
従って、パターンAの人にいる人が自力で正解まで到達することは、まず無理だと思っていい。

回答パターンB:「蹴り方を知らないので、できません」

ではここでカーフキックが何なのかだけ説明を加えたい。
カーフキック(Calf Kick)とは格闘技の技の1つで、ふくらはぎを狙う蹴りのことを言う。主に相手のフットワークを殺すために用いる。
同じ目的では太ももを蹴るローキックが一般的だが、太ももより筋肉が少なくダメージ蓄積が早いふくらはぎを狙うことで、効率的にフットワークを殺そうという主旨の技だ。

さぁこれでカーフキックが何かはわかった。
じゃあ、カーフキック、もうできますね?

ところが多くの人はまだ「できない」と言うはずだ。なぜなのか。
多くの人がこう主張するだろう。「蹴り方を知らないからできません」。
これがパターンBだ。
要するに、その行為を知ってはいるが技術的にできない、ということだ。
「やったことないからできません」「あまり練習したことがないからできません」も同義と言える。

パターンBはパターンAよもり状況はシンプルだ。
目指すべき形はわかっているので、技術の習得に励めばいい。
この角度で、どこの部位を、どのくらいの速さで当てて…といった具合にトレーニングをすればいい。

回答パターンC:「気が進まないので、できません」

ところがそれでもカーフキックは全ての格闘技選手ができるわけではない。
カーフキックが何かもわかっているし、技術も習得していても、できない。それがパターンCの「心理的に気が進まないのでやりたくない」だ。
なんだそれ?と思われるかも知れないが、「実戦(試合)では」という枕詞が付くとピンとくるのではないだろうか。

「以前実戦で試してみたらドンピシャでカウンターを喰らってしまったので、自分に合わない気がしている」
「自分が得意としている間合いや技術とは相性が悪いと思う」
「(試合だとして)今回の対戦相手を崩すのに有効とは思えない」
こういった考えから、自分にはできないと判断してしまうのだ。

このように言うと自身の能力を過小評価している状態を想像しがちだが、自分の意思で不要と判断している場合も含まれている(むしろこちらの方が多い)、と考えて欲しい。

「できない」には「知識」「スキル」「マインド」の3要因がある

ここまでで何が言いたかったかと言うと、「できない」という状態には3パターンの要因があるということだ。
パターンが違うということは、その根底にある問題も違う。

  • パターンA:知らないからできない → 知識の問題
  • パターンB:技術的にできない → スキルの問題
  • パターンC:やる気が無い、不要と思っている → マインドの問題

そして冒頭の話に戻る。なぜちゃんと教えているのにいつまでもできないままの人がいるのか。
答えは簡単だ。「できない」ことの原因のパターンと、それに対する教え方のパターンが、食い違っているからだ。

先程のカーフキックの例を使うとこういうことだ。;

  • カーフキック自体を知らないのに、カーフキックがいかに有効かを説かれる(A⇔C)。
  • カーフキックを打つ身体の動かし方を知りたいのに、カーフキックとは何かを語られる(B⇔A)。
  • カーフキックを使わない自分なりの理由があるのに、威力のあるカーフキックの打ち方を教えられる(C⇔B)。

これでは受け手の問題は解消されないので、教える側の熱量もむなしく事態は進展しない。結果、受け手はいつまでたっても「できない」ままになってしまう。

なにも格闘技に限らない。むしろ仕事の現場の方がこういったことが多く起きているのではないか。

  • 作業の存在自体を知らなかったのに「周囲を見てよく考えていないからできないのだ」と怒られる(A⇔C)。
  • その作業の意味を知りたいのに「従前の通りやれば問題は起きないから」とマニュアルを渡される(C⇔B)。
  • 作業のやり方を知りたいのに、作業の結果がどう役に立つかを説明される(B⇔C)。

なぜわざわざ分類せねばならないのか

ここまでで述べた「できない要因を分類する」という考え方はなぜ一般的でないのだろうか。なぜ着目されずにきているのだろうか。少し考えたい。

考えられる原因の1つは、そんな分類をしなくても育ってきた人が今までいたことだ。
パターンが食い違うアドバイスを受けたとしても、受け手によってはそこから自分の問題に役立つように読み替えることができる。“咀嚼”と言えばわかりやすいだろうか。
しかしこの咀嚼ができるのは能力が高い受け手に限られる。大半の人はうまく出来なかったり、そもそも咀嚼するという発想がないので丸呑みして消化不良を起こすのが普通だ。
だが事実として少数の優秀者は咀嚼ができ、思惑通りに育つ。そのため教える側は往々にして「俺の言うことはうまく咀嚼すればわかる。その咀嚼は受け手の仕事」と割り切る立場をとる。結果、できない要因を深掘りするという逆ベクトルの考え方は劣後とされてきた。というわけだ。

もう1つの原因として、「考えさせる」を重視しがちな日本の価値観の影響も考えられる。
確かに世の中には自分の疑問に直接答える情報を得られないことも多い。そのためか日本では「自力で解決策を模索できるようになれ」という教育的な意図のもと、あえて断片的なアドバイスをして考えさせるケースがままあるように思う。
何にでも「道」としての価値を見出したがる日本人の性、とも言えるかもしれない。

だがこれらはいずれも、今の日本で最適解となることは少ないように思う。理由は単純で、今の日本は人口が減少傾向にあり、人材の取り合いになっているからだ。
咀嚼を受け手に求めることや「考えさせる」ことは、学習として難易度が高い。よって脱落者が出る可能性が上がる。しかしここで「多くの候補者の中から優秀な人材を選抜する」という思想や仕組みをとれば、それでも思惑通りに育った人材を得られる。その後ろには大量の屍があるのだが、とにかく人材獲得はできる。人口も業績も右肩上がりの時はこの考え方が合理的だ。それこそ高度経済成長期のように。
だが今はそうではない。これから人口が減少するのは明白だし、優秀な人材の流出機会も増えている。環境が変わったのだ。現代日本の企業や組織は「多くの候補から優秀者を選抜する」から「どんな人材でも速やかに一定レベルまで到達させる」へと考え方をシフトチェンジせねばならない。だからわざわざ「できない」をパターン化して分析するという手間をかけて、人材の収率を上げることが必要なのだ。

どうすれば「できる」ようになるのか

冒頭の問に再び戻りたい。きちんと説明しているはずなのにいつまで経ってもできない。そんな人をどうやって「できる」ようにするのか。
その答えは、実はここまででもう半分くらい出ている。

まず最初は「要因に3パターンあることを認識する」である。
この記事を読むまで、そもそもパターンがあること自体考えたこともなかった人が大半ではないだろうか。
3パターンあることを認識することで、見える景色が変わる。これを感じて欲しい。「なんでこいつはできないんだ?」から「こいつ、どれだ?」になるはずだ。

次は「パターンに分類する」だ。
具体的なアクションとしてはその人との会話や言動観察を通じて情報を集めて「これかな?」と推定していくことになるのだが、これは頭を使う。「できない」人にもプライドがあるので、知識がなかったとか能力が低いからとかいうイケテナイ情報を自らストレートに吐露することはないからだ。よってここは教える側が読み取らねばならない。複合の場合もあるので注意。
「そこまでしてやらないといけないの?」という声が聞こえてきそうだが、そうだ。そこまでしてやるのだ。こういうアプローチが現代の日本で求られていることを、改めて思い出して欲しい。

そして「パターンに合わせたアドバイスをする」。
パターンが食い違っている例について既述したが、意識しないと往々にしてこうなってしまう。そこを意識的に合わせにいくのだ。
作業自体を知らないならその存在から教える。技術がたりず足を引っ張っているなら補填するスキルを教える。やる気になってくれないなら価値観や判断基準を紐解く。
いずれも、受け手の問題がどのパターンなのかが明瞭なほど、適切なアドバイスが自然と出てくるはずだ。

最後に注意。「教える側は問題を『マインド』に求めがちなので気を付けろ」。
「できる」ようになっている人は知識・スキル・マインドを既に兼ね備えている。だがそのうち知識とスキルはゴールが明確なので、習得者にとってはどんどん新鮮味が失われていく。逆にマインドは人や状況によって変わるので、追求しても色あせない。そのためいざアドバイスする段になると、教える側は往々にしてマインドを中心に話しがちなのだ。咀嚼や「考えさせる」を好む人だとなおさらこの傾向が強くなる。
知識・スキル・マインドの3つには順序も序列もなく対等だ。だから意識的に「問題は知識では?スキルでは?」と問いを巡らせるくらいでちょうどいい。

例えばあなたが以前頼んだ仕事を部下がやっておらず、なぜまだなのか?と訊いた答えが「すみません、失念していました」だったとしよう。
こういう時に「たるんでいるんじゃないのか、気合い入れなおせ」とか言って奮起を促すのがありがちな展開だが、これがダメなやつだ。マインド因だと決めつけているからだ。
部下は「失念していた」という事実こそ述べたが、背景は不明ではないか。もしかしたら、その仕事はさっさとやるべきものだと知らなったのかもしれない。或いは仕事を捌く能力がまだ低いために、パソコンのように処理が“重く”なっているのかもしれない。もしそういことなのだとしたら、気合入れろとムチを入れても効果は知れている。
パンクして走れない車にいくらガソリンを注ぎ込んでも動かない。

終)石とダイヤとカーフキック

以上が私が行きついた「できない人をできるようにする」方法だ。
なにぶん経験則に基づくものなので客観性に欠けるのは否めないが、効果のある考え方であることは自負したい。
私の目から見れば、できない理由と助言とが食い違っているせいで行き詰っている人は本当にたくさんいる。そしてその多くは、教える側が合わせに行くことで本当に素早く解消する。
これを読んでいる人が今後「できない」人に出会った時、この記事のことを思い出してくれたらうれしい。こいつホントつかえねーなと思ったら、カーフキックだ。

最後に、武道家でありながら人材の教育や育成に熱心だったとされる少林寺拳法の開祖・宗道臣の言葉を紹介して終わりにしたい。

「世の中にダイヤの原石は少ない。
 だが、磨けばなんとかなる石は案外多い」


次回は5月30日頃
テーマは「格闘家のYouTube進出から見る『イノベーションの新結合』」
のアップを予定しています。

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