マダガスカル・ベレンティ保護区旅行記③

トラニャロ(フォール・ドーファン)でガイドさん達と合流。ガイドさんは日本語もかなり達者でこれには助かった。

意外なことに、保護区へ向かうドライバーやホテルのレセプションなど、片言の日本語を話してくる方と何人か出会った。かつては、日本からもそれなりの観光客が来ていたらしい。2006年にバンコクからトラニャロへの直行便が無くなってしまい、日本から保護区への観光客が減ったという。

今や欧州からの直行便もなく、ここトラニャロへは国内便を経由しなければ来れない。大丈夫か?ベレンティ保護区のエコツーリズムは。

閑話休題。

トラニャロから国道13号線を走ってベレンティ保護区へ向かう。これが大変な悪路。1960年に舗装されて以降一度も補修がされていないという。90kmの道のりを3時間で。それだけでもどれだけの悪路か想像してもらえると思うけど、例えばこんな感じ。

マダガスカル国道13号線

国道では幾度となく下の写真のような乗り合いバスとすれ違った。なんと3,4日かけてアンタナナリボまでいくのだという。おおよそ1,000km超の道のりだけど、これだけ凸凹の道が続けばそりゃ3,4日は掛かるであろう。さすがに乗客の中に観光客は見当たらなかった。

マダガスカル長距離乗合バス

マダガスカルは11月から雨季に入る。今年の南西部はとりわけ雨が多いそうだ。

途中国道が河に浸かって通れないというアクシデントが。

マダガスカル国道13号線・川に浸水

実はそんなことを想定してか、(写真には写っていないけど)この脇に川を跨ぐコンクリート製の歩道が架橋されているので、徒歩での通行は可能。折しもベレンティ・ツアー日程を丁度終えた別のアメリカ人観光客が向こう岸で同様に立ち往生していたので、車を交換し合って我々もベレンティに向かうことができた。タイミング良く行き違う観光客がいなかったらどうなっていたのだろう。

ちなみに2日後の帰り道は水深が浅くなっていたので車でそのまま浸水箇所を渡河できたのだが、現地住民の洗濯、水浴びの場所と化していた。なんというか、こういう融通無限な暮らしを皆さんしているのだろうな、、、

マダガスカル国道13号線・浸水箇所

ようやく目的地のベレンティ保護区が近づいてきた。

マダガスカル・ベレンティ保護区旅行記②

ところで、かの横っ飛びのヴェローシファカを見るだけならば、アンタナナリボ郊外のレミュール・パークでもOK。ただ、こちらはあくまで野生ではなく放し飼い。日数に余裕もあるし、せっかくだから、生息域のベレンティ保護区まで足を延ばしてみようと思ったわけなのだけれども、ベレンティ保護区のツアーの日本語情報がweb上になかなか見つからない。「マダガスカル周遊7泊8日」とか日本の旅行代理店が手配しているツアーパックで訪れている人が多いのかな?

結局私が依頼したのは “Visit Mada Tours”という現地会社が運営しているこちらのツアー。ベレンティ保護区内2泊、フォール・ドーファン1泊で昼夕食は含まず、1人640EUR。今回の旅で滞在日数的に丁度良かったのだが、希望に応じて日数や金額は調整・交渉できそうな雰囲気だった。

一つの難点は代金を銀行送金で決済しなければならなかったこと。ドイツの銀行口座から送金したけど、手数料が掛かるし、入金確認までのタイムラグもあるし。

旅行当日。

まず初日はフランクフルトからモーリシャスに機内泊で飛んで、翌日午前中にアンタナナリボ到着。

ちなみにモーリシャス・アンタナナリボの機内では写真のようなリーフレットが渡される。この中に切り離し可能な入国カードが入っている。

マダガスカル入国カード
マダガスカル入国カード

実は日本人のマダガスカル入国にはビザが必要。日本のパスポートなら大丈夫なんじゃね?とタカをくくっていた私は入国二日前に知った。

でも到着時に空港で簡単に取得できるので大丈夫。30日用の観光ビザで35EUR。入国審査直後の窓口で特段時間も要せず取得できた。

この日はアンタナナリボ泊。

アンタナナリボ・ 空港から市街地へ向かう車窓
アンタナナリボ・ 公道の脇で干されている洗濯物

100EUR = 400,000アリアリ。通貨がバグっていて高いのか安いのか一瞬ではわからない、、、

アンタナナリボ・スーパーマーケット

Anosy池沿いのホテルの部屋からの風景。もう少し早い時期に来ればジャカランダの花盛りだったはずなのだが。

アンタナナリボ・Lake Anosy

現地の市場も散策。

アンタナナリボ市中

人気の娯楽なのだろうか。ビンゴ大会をやっていた。当たったらテント中央のお菓子をもらえるのだろう。

アンタナナリボ市中・ビンゴ

夕方になると激しい雷と夕立に。夕食はホテルのレストランでとって、翌早朝のフライトでトラニャロ(フォール・ドーファン)へ。

マダガスカル・ベレンティ保護区旅行記①

来年2月の日本帰任を控えて、最後の年末はどこへ旅行へ行ったものか、、、

そういえば、あの横っ跳びサル・ヴェローシファカを見に一度マダガスカル行ってみたかったのだよなぁ、と思いつつ、遅まきながら11月中旬にフランクフルト・アンタナナリボ(マダガスカル首都)のフライトを検索してみると、やはり直行便は既に売り切れ。

あきらめて地中海リゾートのどこかにするか、と早くも見切りムードだった私は目ざとくマダガスカル島東方の小さな島を発見した。

モーリシャス島。リゾートとしてよく聞く名前だ、、、

調べてみるとフランクフルト・モーリシャスの直行便はある程度空きがあるではないか。そして「モーリシャス島とマダガスカル島間ならたくさん直行便があるんじゃないですか?」という私のオフィス隣に座っている後輩からナイスな助言。

よし!フランクフルト・モーリシャス便を起点にして、マダガスカル・モーリシャスの2週間旅のプランを立ててみよう。地中海の島々を数多制覇してきた「島男」にふさわしいフィナーレだ。

せっかくだから、マダガスカルで一番確実にベローシファカを見れそうなベレンティ私設保護区まで足を延ばそう。バオバブ街道で有名なモロンダバは無視!

ということで、今回の旅程は以下のようになった。

  • 12月15日16:10フランクフルト発 12月16日6:40モーリシャス着(コンドル航空DE2314)
  • 12月16日9:55モーリシャス発 10:40アンタナナリボ着(マダガスカル航空MD187)
  • 12月17日7:40アンタナナリボ発 9:30トラニャロ着(サラディア航空TZ714)
  • 12月20日15:15トラニャロ発 17:05アンタナナリボ着(サラディア航空TZ717)
  • 12月21日6:10アンタナナリボ発 8:55モーリシャス着(マダガスカル航空MD186)
  • 12月28日8:30モーリシャス発 17:35フランクフルト着(コンドル航空DE2315)

保護区に一番近い空港トラニャロ(フォール・ドーファン)へモーリシャスからの直行便は飛んでいないらしい。 マダガスカル航空の子会社のサラディア航空がアンタナナリボからの国内便を飛ばしている。ややこしやー。フラッグキャリアのマダガスカル航空が国内便を運航してないわけないと思っていたのだが、こちらのサイトからは国内便は取れないので注意。国内便のサラディア航空はこちら。ワオキツネザルをあしらったロゴがチャーミングだ。

待ってろよ、ヴェローシファカ。

妄想断想三国志⑧

正史『三国志』と小説『三国志演義』との間を妄想が行き交うエッセイ。

不定期に配信され、断りもなく終わると思いますがご容赦ください。

二つの疑問

正史の張松はなぜ、益州の内紛を呼び込みかねない劉備援軍要請の献策をしたのか、また、果たして彼は劉備に接触した時点で益州奪取まで絵図面を引いていたのか。

一つ目の疑問については、すぐに答えが出る。

当時の益州は酷い内乱状態にあった。

張魯(ちょうろ)も元々は劉璋の父・劉焉(りゅうえん)が命じて漢中に駐屯させたのが、劉璋の代になって離反したものだし、これに対抗させて兵を与えた龐羲(ほうぎ)や李異(りい)などの武将も手柄を恃んでつけあがり、叛乱しかねない勢い。

同姓として比較的信頼ができ(これが実は信頼できないのだが)、かつ百戦錬磨の劉備軍を迎え入れるという選択は一応理にかなっている。もちろん政・軍事の主導権はある程度劉備へと移行するだろうが、既に軍事的な求心力を失っているのだから、あまり現況と変わりない。

荊州牧・劉表の例に倣って、焦眉の軍事的内憂外患には劉備に対抗してもらいつつ、同時に益州の治政を立て直して双極的な統治体制を目指す、張松の目論みはせいぜいそんなところではなかったのだろうか。

最終的に劉璋を追い出して劉備に益州唯一の主となってもらう、張松にそこまで過激な腹案があったものか?

益州奪取の黒幕は誰か

もう少し史書の記す経緯を追ってみることにする。

  1. 援軍として到着した劉備を迎えた法正は「劉璋の惰弱につけこみましょう。張松は益州の股肱の臣でありますが、内部で呼応いたします。」と伝える。(蜀書・法正伝)
  2. 劉備は益州の涪(ふ)で劉璋と会見する。そこで張松は法正に「会見の場で劉璋を殺害すべし」と劉備に具申させた。劉備の軍師・龐統も類似の進言を行っている。しかし劉備は実行しなかった。(蜀書・先主伝、龐統伝)
  3. 建安17年(212年)、曹操が濡須(じゅしゅ)で孫権を攻撃。孫権との同盟を理由に劉備が荊州への撤退を申し出る。劉璋の元に留まっていた張松は「今大事垂可立、如何釋此去乎!」(今大業が打ち立てられようとしているのに、どうしてこれを放置して立ち去られるのですか。)と法正・劉備に手紙を送ろうとするが兄の張粛に見つかり、劉璋に誅殺される。これによって劉備と劉璋の仲が決裂。 (蜀書・先主伝)

このあたりでは、張松が明らかに劉備奪蜀の黒幕とされている。

しかし、3.の手紙は、”大事”と記しているだけで、明確な謀反の意思を伝えているわけではない。そして、”大事” が劉備の益州武力奪取を意味しているのなら、悠長に手紙など書いている場合ではない。妻子を捨ててでも劉備陣営に奔らなくてはいけない。

そもそも、劉備と劉璋の不仲が決定的になっただけで、張松の面目は丸つぶれ、劉璋陣営に留まっている限り相当な粛清を覚悟しなければならないのだ。劉備が撤退を申し出た時点で、やはり張松に残された選択肢は劉備陣営に逃げて賓客程度の待遇に収まるくらいしかない。

張松はこの時点に至って尚、劉備と劉璋の軍事的衝突を想定していなかったどころか、まだ友好関係の回復の可能性があると踏んでいたから劉璋の元に留まっていたのではないだろうか。

1.と2.で張松からの献策を伝えているのが法正である点に注目したい。

そういえば『呉書』は 張松と法正が劉備に益州の地誌を包み隠さず伝えたことを示唆していた。(前回の記事を参照。)いや、ほぼ間違いなく法正であっただろう。張松は劉備に会ったとしても赤壁の戦い直後の一回限りである。このときの張松の元々の使命は曹操への修好を確認することであって、益州の詳細な情報を持参したとは考えづらい。

少なくとも二度劉備に会見している法正が益州の地誌を伝えたと考えるのが自然である。機密情報とも言うべき自国の地誌を他の君主に伝えているのだから、法正は既にこの時点で劉備と奪蜀で内通していたとみるべきだ。

二つ目の疑問に対する、私なりの答えはこうである。

益州武力奪取のシナリオを描いた鷹派はおそらく法正だ。

張松はあくまで劉璋・劉備の修好に努め、劉備の軍事力に頼りながら益州の統治を立て直し、せいぜい緩やかな政権シフトを目指していた。かたや法正は表向き張松の陪臣・劉璋修好の使者という体で劉備陣営に滞在しながら、「張松はこう申しております」と彼を自己韜晦に利用して、劉備の軍師・龐統ともに劉璋排斥を謀ったのである。

法正は孟達ともに、司隷扶風郡から飢饉を避けてきた流れ者である。張松とは親交はあったものの、劉璋政権において地元出身の顕官である彼と法正・孟達の処遇には大きな懸隔がある。劉備に恩を売って劉璋を追い出してもらい、益州のエスタブリッシュメントが入れ替われば、法正・孟達は大幅な立身出世を見込めるのだ。

彼にとって幸いなことに、張松は劉備・劉璋の不和と同時に殺害された。「すべて張松から指図されていた」と周囲に漏らせば、死人に口なし、旧主・劉璋に対する不忠の罪は張松へと転嫁されることになる。

劉備入蜀に貢献した益州士人、張松・法正・孟達の顛末は三者三様だ。

張松は劉備の益州政権に参画する前に劉璋に誅殺され、孟達はその後重用されるも劉封との不仲をきっかけに魏へ亡命し、その後また魏に反逆し司馬懿に討たれる。一躍功臣として孔明をも凌ぐ地位を得た法正が手柄を総取りした格好となったが、劉備が皇帝に即位する前年の建安25年(220年)に病没する。


かなり陰謀史観寄りな考察になってしまった。

このあたりの経緯は孔明が蜀に安定した丞相府政権を築く前座話のようなもので、残念ながら『演義』は大した脚色を仕立てていない。なので、これは『演義』の見どころとして有り得たはずのもう一つの物語、そう読んでいただければ幸いである。

妄想断想三国志⑦

正史『三国志』と小説『三国志演義』との間を妄想が行き交うエッセイ。

不定期に配信され、断りもなく終わると思いますがご容赦ください。

もう一人の外交官

赤壁の戦い前後、荊州をうろついていた外交官が魯粛の他にもう一人いた。

益州の張松だ。

彼が手引きして劉備の入蜀を成功させる『演義』の大まかなあらすじは以下の通り。(井波律子訳『三国志演義(二)、(三)』(講談社 2014 )から要約)

建安16年(211年)、漢中の張魯(ちょうろ)が益州の攻略を目論んでいるという情報を得て、益州州牧の劉璋(りゅうしょう)は震え上がる。そこへ州の別駕従事(州の副官)・張松(ちょうしょう)は、曹操に張魯を牽制してもらう案を進言し、曹操のいる許都へ向かう。こっそり益州の地図も携えて。ところが曹操は辺境から来た張松を冷たくあしらったばかりか、彼の不遜な態度に腹を立てて、棒叩きの刑を加えたうえで追い出してしまった。張松は「もともと益州の地を曹操に献上するつもりであったのに、これほど侮辱されるとは、、」と曹操に深い恨みを抱く。ところがその帰途、荊州を寄った張松は劉備に厚く歓迎される。張松は劉備の人柄に感動し、「益州の主、劉璋は暗愚・軟弱です。是非ここを奪って覇業の基礎となさいませ」と益州の地図まで渡してしまったのであった。復命した張松は劉璋に対し、「曹操と組んではなりません。劉備は殿とご同族の大人物。これに使者を遣わして招けば、張魯への備えとなります」。他の群臣は「劉備を益州に招いて、彼が身を屈し小さくしているわけがない。かならずや彼に益州を奪われる」と反対したが、劉璋は耳を貸さず、張松の友人であり彼と志を同じくする法正(ほうせい)・孟達(もうたつ)を使者として劉備に遣わせた。劉備は軍勢を率いて益州に入った後、結局は劉璋と対立して劉璋の本拠地・成都(せいと)へと転進し、益州を奪い取ってしまう。劉璋のもとに留まっていた張松は、劉備との密通文書を兄・張粛(ちょうしゅく)に発見されて劉璋に殺害されてしまう。

『演義』では劉璋の益州を劉備に売った主犯格は張松ということになっている。

しかし、既に益州別駕従事という要職にあった張松が(正史でもそうなっている)、自分の主をわざわざ劉璋から劉備に挿げ替えるメリットとは一体何なのだろう?

既に荊州に一定の規模の幕府を構えている劉備政権に参加したとして、自分の権勢は約束されているわけではないのに。いくら自分の主君が頼りないとはいえ、他所から別の主君を迎えようなどという突飛な計画を思いつくものだろうか。

ここをずっと不審に思っていた。

『三国志』他私史から読み取れる委細はやや異なるようだ。

  1. 劉璋が曹操に使者を送ったのは、建安13年(208年)の曹操荊州制圧直後のこと。まず、陰溥(いんほ)を派遣して曹操に敬意を表し、劉璋は振威将軍に任ぜられた。劉璋は相次いで別駕従事の張粛(ちょうしゅく、張松の兄)を、次いで同じく別駕従事の張松を派遣。しかし曹操は劉備を敗走させた直後で、張松を歯牙にもかけなかった。(蜀書・劉璋伝)
  2. 建安13年12月、曹操は赤壁で敗北して荊州から撤退。荊州から帰った張松は曹操との絶交と劉備との修好を勧め、劉璋はこれを容れる。劉璋は劉備に法正、孟達、兵数千人を援軍として送る。法正はその後劉璋のもとへ復命。(蜀書・劉璋伝)韋昭の『呉書』は、まず張松がそして法正が劉備に会い、益州の地誌をつぶさに伝えたという異聞を載せる。
  3. 建安16年(211年)、曹操が漢中の張魯を討伐しようとしているとの情報が劉璋の元に入る。張松は曹操への対抗として、「劉備は殿のご一族に当たるうえ、曹操の仇敵。彼に張魯を討伐させて益州を強化して曹操の侵攻に備えましょう」と劉璋に進言。劉璋はこれに従って劉備に進物を贈って援軍を要請し、劉備は歩兵数万を率いて益州に入った。法正は劉璋の命を受けて、四千の兵を率いて劉備を迎えた。(蜀書・先主伝)

張松は劉備への援軍要請はしているけれども、劉備に“益州奪取”まで献策してはいない。(もちろん劉備陣営側の意図は別の話である。これに前後する孫権・魯粛との外交交渉の内容から、劉備が当時益州制圧を目論んでいたことは明らかだ。)

いやそれどころか、張松が劉備と直接会っているかどうかもはっきりしない。

そもそも1.と2.の経過だけを見ると、張松は曹操との修好という本来の役割を果たせず、なんとか面目を回復しようと荊州に留まっていたところ、運よく赤壁の戦いで荊州の情勢が様変わりしたので、俄かに政略的重要性を増してきた劉備との提携を模索しただけのように思える。(ひょっとすると張松は周瑜も訪れていたかもしれない。)

しかし正史にしても、劉璋は劉備を招き入れ、結果として益州を奪われてしまうのである。

張松はなぜ益州の内紛を呼び込みかねない3.のような献策をしたのか。

また彼は1.2.の時点で劉備の益州奪取まで絵図面を引いていたのだろうか、、、

(次回へと続く)