妄想断想三国志⑧

正史『三国志』と小説『三国志演義』との間を妄想が行き交うエッセイ。

不定期に配信され、断りもなく終わると思いますがご容赦ください。

二つの疑問

正史の張松はなぜ、益州の内紛を呼び込みかねない劉備援軍要請の献策をしたのか、また、果たして彼は劉備に接触した時点で益州奪取まで絵図面を引いていたのか。

一つ目の疑問については、すぐに答えが出る。

当時の益州は酷い内乱状態にあった。

張魯(ちょうろ)も元々は劉璋の父・劉焉(りゅうえん)が命じて漢中に駐屯させたのが、劉璋の代になって離反したものだし、これに対抗させて兵を与えた龐羲(ほうぎ)や李異(りい)などの武将も手柄を恃んでつけあがり、叛乱しかねない勢い。

同姓として比較的信頼ができ(これが実は信頼できないのだが)、かつ百戦錬磨の劉備軍を迎え入れるという選択は一応理にかなっている。もちろん政・軍事の主導権はある程度劉備へと移行するだろうが、既に軍事的な求心力を失っているのだから、あまり現況と変わりない。

荊州牧・劉表の例に倣って、焦眉の軍事的内憂外患には劉備に対抗してもらいつつ、同時に益州の治政を立て直して双極的な統治体制を目指す、張松の目論みはせいぜいそんなところではなかったのだろうか。

最終的に劉璋を追い出して劉備に益州唯一の主となってもらう、張松にそこまで過激な腹案があったものか?

益州奪取の黒幕は誰か

もう少し史書の記す経緯を追ってみることにする。

  1. 援軍として到着した劉備を迎えた法正は「劉璋の惰弱につけこみましょう。張松は益州の股肱の臣でありますが、内部で呼応いたします。」と伝える。(蜀書・法正伝)
  2. 劉備は益州の涪(ふ)で劉璋と会見する。そこで張松は法正に「会見の場で劉璋を殺害すべし」と劉備に具申させた。劉備の軍師・龐統も類似の進言を行っている。しかし劉備は実行しなかった。(蜀書・先主伝、龐統伝)
  3. 建安17年(212年)、曹操が濡須(じゅしゅ)で孫権を攻撃。孫権との同盟を理由に劉備が荊州への撤退を申し出る。劉璋の元に留まっていた張松は「今大事垂可立、如何釋此去乎!」(今大業が打ち立てられようとしているのに、どうしてこれを放置して立ち去られるのですか。)と法正・劉備に手紙を送ろうとするが兄の張粛に見つかり、劉璋に誅殺される。これによって劉備と劉璋の仲が決裂。 (蜀書・先主伝)

このあたりでは、張松が明らかに劉備奪蜀の黒幕とされている。

しかし、3.の手紙は、”大事”と記しているだけで、明確な謀反の意思を伝えているわけではない。そして、”大事” が劉備の益州武力奪取を意味しているのなら、悠長に手紙など書いている場合ではない。妻子を捨ててでも劉備陣営に奔らなくてはいけない。

そもそも、劉備と劉璋の不仲が決定的になっただけで、張松の面目は丸つぶれ、劉璋陣営に留まっている限り相当な粛清を覚悟しなければならないのだ。劉備が撤退を申し出た時点で、やはり張松に残された選択肢は劉備陣営に逃げて賓客程度の待遇に収まるくらいしかない。

張松はこの時点に至って尚、劉備と劉璋の軍事的衝突を想定していなかったどころか、まだ友好関係の回復の可能性があると踏んでいたから劉璋の元に留まっていたのではないだろうか。

1.と2.で張松からの献策を伝えているのが法正である点に注目したい。

そういえば『呉書』は 張松と法正が劉備に益州の地誌を包み隠さず伝えたことを示唆していた。(前回の記事を参照。)いや、ほぼ間違いなく法正であっただろう。張松は劉備に会ったとしても赤壁の戦い直後の一回限りである。このときの張松の元々の使命は曹操への修好を確認することであって、益州の詳細な情報を持参したとは考えづらい。

少なくとも二度劉備に会見している法正が益州の地誌を伝えたと考えるのが自然である。機密情報とも言うべき自国の地誌を他の君主に伝えているのだから、法正は既にこの時点で劉備と奪蜀で内通していたとみるべきだ。

二つ目の疑問に対する、私なりの答えはこうである。

益州武力奪取のシナリオを描いた鷹派はおそらく法正だ。

張松はあくまで劉璋・劉備の修好に努め、劉備の軍事力に頼りながら益州の統治を立て直し、せいぜい緩やかな政権シフトを目指していた。かたや法正は表向き張松の陪臣・劉璋修好の使者という体で劉備陣営に滞在しながら、「張松はこう申しております」と彼を自己韜晦に利用して、劉備の軍師・龐統ともに劉璋排斥を謀ったのである。

法正は孟達ともに、司隷扶風郡から飢饉を避けてきた流れ者である。張松とは親交はあったものの、劉璋政権において地元出身の顕官である彼と法正・孟達の処遇には大きな懸隔がある。劉備に恩を売って劉璋を追い出してもらい、益州のエスタブリッシュメントが入れ替われば、法正・孟達は大幅な立身出世を見込めるのだ。

彼にとって幸いなことに、張松は劉備・劉璋の不和と同時に殺害された。「すべて張松から指図されていた」と周囲に漏らせば、死人に口なし、旧主・劉璋に対する不忠の罪は張松へと転嫁されることになる。

劉備入蜀に貢献した益州士人、張松・法正・孟達の顛末は三者三様だ。

張松は劉備の益州政権に参画する前に劉璋に誅殺され、孟達はその後重用されるも劉封との不仲をきっかけに魏へ亡命し、その後また魏に反逆し司馬懿に討たれる。一躍功臣として孔明をも凌ぐ地位を得た法正が手柄を総取りした格好となったが、劉備が皇帝に即位する前年の建安25年(220年)に病没する。


かなり陰謀史観寄りな考察になってしまった。

このあたりの経緯は孔明が蜀に安定した丞相府政権を築く前座話のようなもので、残念ながら『演義』は大した脚色を仕立てていない。なので、これは『演義』の見どころとして有り得たはずのもう一つの物語、そう読んでいただければ幸いである。

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