妄想断想三国志⑦

正史『三国志』と小説『三国志演義』との間を妄想が行き交うエッセイ。

不定期に配信され、断りもなく終わると思いますがご容赦ください。

もう一人の外交官

赤壁の戦い前後、荊州をうろついていた外交官が魯粛の他にもう一人いた。

益州の張松だ。

彼が手引きして劉備の入蜀を成功させる『演義』の大まかなあらすじは以下の通り。(井波律子訳『三国志演義(二)、(三)』(講談社 2014 )から要約)

建安16年(211年)、漢中の張魯(ちょうろ)が益州の攻略を目論んでいるという情報を得て、益州州牧の劉璋(りゅうしょう)は震え上がる。そこへ州の別駕従事(州の副官)・張松(ちょうしょう)は、曹操に張魯を牽制してもらう案を進言し、曹操のいる許都へ向かう。こっそり益州の地図も携えて。ところが曹操は辺境から来た張松を冷たくあしらったばかりか、彼の不遜な態度に腹を立てて、棒叩きの刑を加えたうえで追い出してしまった。張松は「もともと益州の地を曹操に献上するつもりであったのに、これほど侮辱されるとは、、」と曹操に深い恨みを抱く。ところがその帰途、荊州を寄った張松は劉備に厚く歓迎される。張松は劉備の人柄に感動し、「益州の主、劉璋は暗愚・軟弱です。是非ここを奪って覇業の基礎となさいませ」と益州の地図まで渡してしまったのであった。復命した張松は劉璋に対し、「曹操と組んではなりません。劉備は殿とご同族の大人物。これに使者を遣わして招けば、張魯への備えとなります」。他の群臣は「劉備を益州に招いて、彼が身を屈し小さくしているわけがない。かならずや彼に益州を奪われる」と反対したが、劉璋は耳を貸さず、張松の友人であり彼と志を同じくする法正(ほうせい)・孟達(もうたつ)を使者として劉備に遣わせた。劉備は軍勢を率いて益州に入った後、結局は劉璋と対立して劉璋の本拠地・成都(せいと)へと転進し、益州を奪い取ってしまう。劉璋のもとに留まっていた張松は、劉備との密通文書を兄・張粛(ちょうしゅく)に発見されて劉璋に殺害されてしまう。

『演義』では劉璋の益州を劉備に売った主犯格は張松ということになっている。

しかし、既に益州別駕従事という要職にあった張松が(正史でもそうなっている)、自分の主をわざわざ劉璋から劉備に挿げ替えるメリットとは一体何なのだろう?

既に荊州に一定の規模の幕府を構えている劉備政権に参加したとして、自分の権勢は約束されているわけではないのに。いくら自分の主君が頼りないとはいえ、他所から別の主君を迎えようなどという突飛な計画を思いつくものだろうか。

ここをずっと不審に思っていた。

『三国志』他私史から読み取れる委細はやや異なるようだ。

  1. 劉璋が曹操に使者を送ったのは、建安13年(208年)の曹操荊州制圧直後のこと。まず、陰溥(いんほ)を派遣して曹操に敬意を表し、劉璋は振威将軍に任ぜられた。劉璋は相次いで別駕従事の張粛(ちょうしゅく、張松の兄)を、次いで同じく別駕従事の張松を派遣。しかし曹操は劉備を敗走させた直後で、張松を歯牙にもかけなかった。(蜀書・劉璋伝)
  2. 建安13年12月、曹操は赤壁で敗北して荊州から撤退。荊州から帰った張松は曹操との絶交と劉備との修好を勧め、劉璋はこれを容れる。劉璋は劉備に法正、孟達、兵数千人を援軍として送る。法正はその後劉璋のもとへ復命。(蜀書・劉璋伝)韋昭の『呉書』は、まず張松がそして法正が劉備に会い、益州の地誌をつぶさに伝えたという異聞を載せる。
  3. 建安16年(211年)、曹操が漢中の張魯を討伐しようとしているとの情報が劉璋の元に入る。張松は曹操への対抗として、「劉備は殿のご一族に当たるうえ、曹操の仇敵。彼に張魯を討伐させて益州を強化して曹操の侵攻に備えましょう」と劉璋に進言。劉璋はこれに従って劉備に進物を贈って援軍を要請し、劉備は歩兵数万を率いて益州に入った。法正は劉璋の命を受けて、四千の兵を率いて劉備を迎えた。(蜀書・先主伝)

張松は劉備への援軍要請はしているけれども、劉備に“益州奪取”まで献策してはいない。(もちろん劉備陣営側の意図は別の話である。これに前後する孫権・魯粛との外交交渉の内容から、劉備が当時益州制圧を目論んでいたことは明らかだ。)

いやそれどころか、張松が劉備と直接会っているかどうかもはっきりしない。

そもそも1.と2.の経過だけを見ると、張松は曹操との修好という本来の役割を果たせず、なんとか面目を回復しようと荊州に留まっていたところ、運よく赤壁の戦いで荊州の情勢が様変わりしたので、俄かに政略的重要性を増してきた劉備との提携を模索しただけのように思える。(ひょっとすると張松は周瑜も訪れていたかもしれない。)

しかし正史にしても、劉璋は劉備を招き入れ、結果として益州を奪われてしまうのである。

張松はなぜ益州の内紛を呼び込みかねない3.のような献策をしたのか。

また彼は1.2.の時点で劉備の益州奪取まで絵図面を引いていたのだろうか、、、

(次回へと続く)

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