断想妄想三国志⑥

正史『三国志』と小説『三国志演義』との間を妄想が行き交うエッセイ。

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口八丁の魯粛

まずは正史から。

結局のところ、孫権に対する魯粛の手柄ってなんだったのだろう?

劉備陣営を味方に引き込んだところ?しかし結局赤壁の戦いは周瑜・黄蓋の作戦によって勝利したわけであるし、傭兵隊長・劉備は漁夫の利を得て荊州南部で独立、挙句益州まで得たけれども、ここまで孫権陣営には何の裨益もない。これはむしろ外交官としては大失態ではないのだろうか。

孫・劉交渉の場で魯粛は(「孫権は」と言うべきかもしれないけど)どうしたことかいつも劉備に対して譲歩をしている。

  • 建安15年(210年)頃、劉備が京口に孫権を訪れた際、魯粛だけが劉備への荊州貸与を孫権に提案。周瑜の死後、劉備に南郡が譲渡されて実施されている。(呉書・魯粛伝、程普伝)
  • その後、魯粛は陸口に駐屯。境界地帯での関羽との紛争が相次いだが、魯粛は常に友好的に鎮めた。(呉書・魯粛伝)
  • 建安20年(215年)、荊州の返却を巡って孫権と劉備が対立した。魯粛と関羽の会見(単刀会)の後、劉備からの申し入れにより和平が成立して、孫権は一旦占領した零陵郡を劉備に返している。( 呉書・呉主伝、蜀書、先主伝)

この人、呉書ではなくて蜀書に立伝されるべきだったのでは?

もちろん孫権側にも、合肥や濡須での対曹軍戦線に手を取られおり、周瑜の牽制や、また周瑜死後の荊州の統治に劉備の手を借りなければならないという事情はあった。

そして孫権にとっての当時の魯粛の利用価値とは、彼とツーカーな周瑜や劉備に統制を効かすことにあったと思う。(孫権が当時内心で魯粛をどれだけ信用していたかは怪しいものだけど。「胡散臭いブローカー風情」と思っていたとしても不思議ではない。)

その孫権も後に陸遜と語り合ったときに「劉備への借荊州は魯粛の失策だった」と言っている。そりゃそうだ。結局傭兵隊長に過ぎなかった劉備に独立され、貸した荊州をほぼ武力で奪還しなければならなかったのだから。

結局のところ孫権が魯粛を評価しているのは、自分が帝王となることを彼が予言していたから、に尽きる。

魯粛は周瑜の周旋によって孫権に目通りした際に、

私がひそかに推しはかりますに、漢の王室の再興は不可能であり、曹操もすぐには除き去ることができません。将軍さまにとって最良の計は、江東の地を足場に鼎峙しつつ、天下のどこかに破綻が生じるのを注意深く見守られることでございます。(中略)長江の流域をことごとく占領してしっかりと保持したうえで、帝王を名のられて天下全体の支配へと歩を進められる―これを漢の高祖がなされた事業なのであります。

陳寿編 裴松之注 井波律子訳『正史 三国志7』 筑摩書房 1993  (呉書・魯粛伝より)

と進言したらしい。尤もこれは孫権と魯粛の二人だけの酒席での話だというから、孔明の隆中対同様に真偽の程は怪しいもんである。

曹公が[赤壁で]大敗を喫して逃走したあと、魯粛がまっ先に帰って来た。孫権は、部将たちを集めると、魯粛を迎えに出た。魯粛が宮門を入ろうとして拝礼をすると、孫権は立ち上がって答礼をして、いった、「子敬どの、私が馬の鞍を支えてあなたを馬から迎え下したならば、あなたの功を十分に顕彰したことになるであろうか。」魯粛は小走りに孫権の前に進み出ると、いった、「不十分でございます。」人々はこれを聞いて、びっくりせぬ者はなかった。坐につくと、魯粛はおもむろに鞭を挙げつついった、「願わくば陛下のご威徳が全世界に及び、全中国を一つに纏められ、帝王としてのお事業を完成させられましたうえで、安車蒲輪(天子が賢者を召し出すときの特別の馬車)によって私をお召しくださいましたならば、はじめて私を十分に顕彰してくださったことになるのでございます。」

陳寿編 裴松之注 井波律子訳『正史 三国志7』 筑摩書房 1993  (呉書・魯粛伝より)

こちらは周りに証人がいるし、本当にそのようなことを言ったのかもしれない。

孫権は後にも、事あるごとに自身の即位(229年、黄龍元年)についての魯粛の功績を振り返って誉め讃えている。

要は、赤壁戦前での主戦論、そして早い段階での漢室復興の見切りという二つの大きな”ヤマ”を当てたことで、後に先見性のあった人物として孫権らに称揚されただけなのである。

赤壁戦前では、周囲の知識人から「ただのヤバい奴」くらいにしか見られていなかった魯粛は、曹操が撤退するや否や”まっ先に”孫権のもとへ帰ってくる必要があった。「ほら、俺の言ったとおりだろ」とドヤ顔で面目を施すために。赤壁から(孫権のいる)合肥への道中では、上のセリフを一言半句まで頭に叩き込んだことだろう。

世渡り上手、現代だったら有ること無いことまくし立てて面接官を魅了し就活戦線無双だったであろう魯粛も、『演義』では孔明と周瑜の知恵合戦に置いてけぼりにされる脇役に甘んじてしまっている。

それだけではない。孫権に提唱した「江東鼎峙 」の”意匠”までいつの間にか孔明の「天下三分計」 に奪われてしまった。

完全な道化役に貶められてしまった魯粛は、『演義』の心無い脚色に、泉下で地団太を踏んで口惜しがっているに違いない。

断想妄想三国志⑤

正史『三国志』と小説『三国志演義』との間を妄想が行き交うエッセイ。

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複雑怪奇、荊州の政情

赤壁の戦いは、周瑜や龐統、孔明ら荊州・江東の人士らが策略を以てあっぱれ曹操の大軍を打ち破る 『三国志演義』の圧巻の一つになっている。また水面下に進行する、孔明と周瑜との互いの才智を掛けた駆け引きも面白い。

赤壁の戦い後、 両者の角逐は孔明の勝利という形で終わる。曹操撤退後の荊州の南郡(なんぐん)に拠る曹仁(そうじん)と、これを攻めあぐねる周瑜を尻目に、孔明は隙をついて趙雲に南郡を奪わせてしまう。漁夫の利の荊州を得て、劉備陣営の飛躍がここから始まるのである。

正史でのこの頃の劉備と孫権・周瑜の関係は複雑怪奇、そして胡乱。

ただ結論めいたことは、風篁楼というサイトの管理者”いづな”さんが「三國志修正計画」で指摘されている。

孫呉にとっての劉備は極めて独立性の高い傭兵に過ぎません。夏口に到達した時点での兵力が、先主伝の通りに万余だったとしても、その兵力を養う資は無く、同盟と呼べるような関係は孫権との間に成立しません。諸葛亮が孫権と交渉したのは劉備の兵に食い扶持を与える事で、赤壁の褒賞は傭兵契約の更新と、荊南経略という実務の提供でしょう。

いづな ”風篁楼:趣味の東アジア史抄事典 三國志修正計画(呉書周瑜魯粛伝)” <http://home.t02.itscom.net/izn/ea/index.html>

正史上では、赤壁の戦い後の建安14年(209年)頃、劉備陣営が荊州南部一帯を手中にするに至って尚、劉備と孫権との関係は対等でなかったと見た方が良いと私も思う。

  • 曹仁の籠る江陵城を攻めるときに、劉備と周瑜が互いの兵を貸し合う。(呉書・周瑜伝の裴松之注『呉録』)
  • 荊州安定後、劉備はわざわざ孫権の本拠地・京口に赴く。(蜀書・先主伝)
  • 孫権に対して荊州の都督になりたいと申し出る。(呉書・魯粛伝)
  • その際、周瑜は孫権に対し「劉備以梟雄之姿、而有關羽・張飛熊虎之將、必非久屈為人用者」(劉備は野心のある英雄であって、関羽や張飛といった勇猛な武将を率いているから、必ず人の下に屈して命令に従うような人物ではない。)と言っている。 (呉書・周瑜伝)

劉備が孫権や周瑜から独立した”第三極”だったとしたならば、これらの『三国志』本文や注釈の記述は違和感がありすぎる。これらを整合的に解釈するためには、劉備が(少なくとも建前上は)孫権陣営の傭兵隊長に過ぎなかったと考えるよりない。

半生を寄食客居で過ごしてきた劉備のことだから、孫権にも頭を下げることなんてヘッチャラだったに違いない。

赤壁の戦い前後、合肥の戦線で手一杯だった孫権にとってみれば、荊州を手に入れた周瑜や劉備が自身の統制から離れて独立不羈の第三勢力へと成長していくのを恐れていたはずだ。

実は劉備が京口の孫権を訪れたとき、

  • 周瑜は先の発言に加えてさらに 、「劉備を呉に留めて飼い殺しにして、自身(周瑜)が関羽や張飛らを率いて天下統一を成し遂げよう」という献策を孫権に対して行っている。(呉書・周瑜伝 )
  • 孫権は「北方には曹操が健在だから、多くの英雄を手なずけなければ」とそれを聞き入れない。
  • 荊州に帰還することになった劉備は、別れの宴席にて孫権に「周瑜はいつまでも人の下に仕えてはいませんよ」と不穏な言葉を残す。( 呉書・周瑜伝 の裴松之注『江表伝』 )

と、孫権・劉備・周瑜が互いに牽制合戦を演じている。そもそも孫権が先だって妹を劉備に娶せて修好を確認したのも、周瑜への警戒あってのことだろうし。

この複雑な三者の関係があってこそ、これに輪をかけてミステリアスな、というか胡散臭さ芬々のメッセンジャー・魯粛に暗躍の余地が生じるわけだ。

(次回へと続く)

断想妄想三国志④

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孔明と魏延

『三国志演義』上の魏延は、関羽が荊州の長沙(ちょうさ)に攻め寄せた際、城内で反乱を起こして長沙太守の韓玄(かんげん)を殺害し、関羽に投降したことになっている。

関羽がお目通りさせるべく魏延を連れて来ると、諸葛亮は引きずり出して斬れと、衛兵に命じた。劉備が驚いて諸葛亮に尋ねた。

(劉備)「魏延は手柄こそあれ罪はない。軍師はどうして殺そうとされるのか。」

(諸葛亮)「その禄を食みながら主君を殺すのは不忠です。(略)私の見たところでは、魏延は頭のうしろに反骨(突き出た骨)がありますから、先々必ず謀反するでしょう。だから先に斬って、禍根を断つのです」

(劉備)「この男を斬れば、降伏した者たちが自分も危ないと考えるだろう。どうか軍師には許してやってもらいたい。」

(諸葛亮)「今しばらくお前の命を助けてやるから、忠義を尽くして主君にご恩返しせよ。二心を懐いてはならぬ。もし二心を懐くことがあれば、私はどうあろうともおまえの首を取るぞ」

井波律子訳『三国志演義(二)』 講談社 2014

『演義』は、「君臣の義を分かりやすく押し広める」道徳小説なので、不忠をはたらいたものは、忠臣の鑑のような諸葛亮に容赦なく断罪される。

かつそれを利用しながら、人相観としての孔明のミステリアスさを演出しつつ、後の魏延の諸葛亮に対する反目の伏線も張る。『演義』の巧みなプロットの一つだ。

正史では?

魏延は劉備にかなり厚遇されていたようだ。

益州侵攻の際には一部隊長だったにも拘らず、手柄を積み重ね、建安二十四年(219年)に劉備が漢中王になった際には、督漢中・鎮遠将軍・領漢中太守に抜擢された。荊州以来の新参家臣だったのに、宿臣の張飛をかわして一躍対魏の前線司令官になったわけだ。大出世である。

劉備から直に漢中を任せされたという自負からも、 北伐時に自分よりも軍事キャリアの短い孔明の丞相府の言いなりになるのは耐えられなかったのだろう。魏延は常に孔明とは別行動をとりたいと願い出たが、許されず、臆病な孔明を恨んでいたらしい。

割と劉備の寵臣・宿臣に対しては「気遣いい」な孔明のことだ。荊州失陥から夷陵の敗戦、劉備の病死で立て続けに古参の軍府が壊滅した後、彼にとっても魏延は最後の”目の上の瘤”だったかもしれない。

そういう正史上の材料を、『演義』側も抜け目なく利用する。

第一次北伐で孔明と別行動を取って、夏侯楙(かこうぼう)の守る長安を急襲したいと申し出た『魏略』のエピソードはそのまま所収されている。

これに加えて『演義』では、箕谷で孔明の命令を聞かずに進撃して伏兵に遭った挙句陳式に罪をなすりつけたり、上方谷の戦いで孔明に司馬懿もろとも焼き殺されそうになって怒り狂ったり、気の毒なほどに魏延の驕慢さと不平っぷりを示すフィクションが盛り込まれている。

極めつけは孔明最後の北伐、五丈原陣中のくだりである。

孔明は天文を観察して自身の寿命が長くないことを知るが、姜維の勧めに従って、余人を退けた祭壇で七日七晩延命の祈祷を行うことにした。祈祷は六日間順調に進んでいたが、翌七日目、魏軍の襲撃を報告しに魏延が孔明のもとへズカズカとやって来て、祭壇の灯りの一つを踏み倒して消してしまう。孔明はついに自分の寿命が尽きたことを悟ったのだった。

もちろんこれもフィクションなのではあるが、まるで魏延が孔明を殺したことになっている。

劉備への仕官から孔明の死に至るまで、『演義』は魏延の不義の吹聴に全く余念がない。

もう一度正史に戻ろう。

五丈原陣中での孔明の没後、魏延は継戦を主張するが、他の将領たちはそれに従わず早々と撤退してしまう。勇猛な叩き上げ軍人・魏延と孔明の補佐官( 丞相長史)の立場にあった楊儀(ようぎ)との間の統帥権継承争いは結局楊儀の勝利に終わり、配下の士卒にも見放された魏延の進退は極まり、馬岱(ばたい)に斬り殺される。

大黒柱・孔明を失った直後にもかかわらず、結局魏延のクーデターはさして大規模な騒乱に至らなかった。迅速な丞相府の動きの背後には「魏延が従わない場合は、彼だけ残して撤退して良い」という、死に際の孔明の指図があった。

さすがは組織統治のプロフェッショナルの孔明だ。自分の死後の紛争を察知しての周到な対応に、その深謀遠慮ぶりが表れる。

「死せる孔明」が走らせたのは、仲達(司馬懿)ではなく魏延だったというべきかもしれない。

断想妄想三国志③

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孔明の隆中対(りゅうちゅうたい)

隆中対というのは、劉備があの有名な三顧の礼をもって隆中の諸葛亮孔明を訪れた際に、孔明が披歴したアドバイスのことである。

その内容は正史『三国志』の蜀志・諸葛亮伝にもキッチリ所載されている。

もしも荊州と益州にまたがって支配され、その要害を保ち、西方の諸蛮族をなつけ、南方の異民族を慰撫なさって、外では孫権とよしみを結び、内では政治を修められ、天下にいったん変事があれば、一人の上将に命じて荊州の軍を宛・洛に向かわせ、将軍ご自身は益州の軍勢を率いて秦川に出撃するようになさったならば、覇業は成就し、漢王朝は復興するでしょう。

陳寿編 裴松之注 井波律子訳『正史 三国志5』 筑摩書房 1993  (蜀書・諸葛亮伝より)

実はこの献策内容自体には、『演義』もまったくと言っていいほど脚色を加えていない。

そのこと一つを取っても、史実として本当にこの献策が隆中で行われたものかどうか、芬々と怪しい香りが漂ってくる。

まず、話が出来すぎている。「南方の異民族を慰撫、孫権とよしみを結ぶ、内では政治を修め、、、」孔明のその後の事績を完璧になぞるようなプランになっているではないか。

実は、魚豢 (ぎょかん)が著した魏の歴史書『魏略』では、三顧の礼などは存在せず、孔明の方から劉備を訪ねたことになっている。それに対して、陳寿『三国志』に注釈をつけた裴松之(はいしょうし)はこう反論するのである。

諸葛亮の〔出師の〕表に、「先帝は、臣を身分いやしきものとされずに、まげて自分のほうから訪問なさり、三たび臣のあばら家を訪れて、臣に当代の情勢についてご質問なさった」とあることからすれば、諸葛亮のほうから先に劉備を訪れたのでないことは明白である。

陳寿編 裴松之注 井波律子訳『正史 三国志5』 筑摩書房 1993  (蜀書・諸葛亮伝より)

いやいや、裴松之さんは甘すぎでしょう。

「出師の表」は孔明が書いたものなのだから、その中で三顧の礼が触れられているからこそ、むしろ捏造の可能性を疑わなければならないはずなのに。

べつにこれは私の創案でもなんでもなくて、高島俊男さんという史家が既に指摘している。

それにだいたい(隆中対のときに:筆者注)「人ばらいをして言った」と陳寿は書いてある。二人だけの話なのである。それをいったいだれが記録して伝えたというのか。(中略)『三国志』を読んだ人ならだれでも感じるにちがいないことであるが、この史書は、事実、ないしは事実の経緯についての記載がいたって不備である。そのくせ、というか、そのかわりに、というか、人物の発言の記載はむやみに詳細である。

高島俊男『三国志 きらめく群像』 筑摩書房 2000

ひとまず荊州・益州を足掛かりに曹操・孫権と「天下を三分」し、機を見て二路から曹操を討つ、という青写真は、その後の情勢からなし崩し的に思いついたものなのだろう。盟友の呉の魯粛が夙に「漢室の再興は不可、江東に鼎峙して、、、」とか孫権に献策しているから、ひょっとしたら孔明が彼から得た着想かもしれない。(魯粛の孫権への献策も同じ理由で怪しいもんではあるけれど。)

ともあれ、隆中での献策は事実でなかったとしよう。

孔明の凄いところは、こういうエピソードをでっちあげて「出師の表」の北伐プロパガンダを補強するために活用したところだと思う。

「北伐は先主(劉備)が隆中を訪れたときからの構想であって、遺命でもある。」 (出師の表にそこまで直接的には書かれていないけど)

北伐の意義、自身の統帥権の正統性を宣伝する手法としてこれ以上のものがあるだろうか。

「三顧の礼」「隆中対」「天下三分計」。

蜀漢という国を一つにまとめ上げたばかりか、天才軍師諸葛孔明の事績を称揚するキャッチーなフレーズとして、これらは『演義』の力も借りながら後世まで人口に膾炙することになる。これこそが、セルフプロデュースに巧みな「孔明の罠」だったのではないだろうか。

もし孔明が今の時代を生きていたら、「あの時先主(劉備)様はわたくしに、、、#三顧の礼 #天下三分の計」などというツイートを一日三回は発信して、ン百万のフォロワーがついていたであろうことは間違いないと思うのだ。

断想妄想三国志②

正史『三国志』と小説『三国志演義』との間を妄想が行き交う読み切りエッセイ。

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「轅門射戟」(えんもんしゃげき)

『三国志演義』 には、剛勇無双の呂布が神懸った射技を見せる場面がある。「轅門射戟」(えんもんしゃげき)と呼ばれるエピソードだ。

揚州・寿春の袁術は宿敵の劉備を討つべく、将軍・紀霊に軍勢を預けて徐州の小沛へと差し向ける。両軍が対峙しているところへ徐州の下邳から手勢を率いた呂布がやってきて、いぶかしむ紀霊・劉備らを強引に酒宴の席に招くのである。


「ご両所、無用の戦いをしてはならない。なにもかも天命なのだ」と言うや、左右の者に対して、画戟を受け取って、はるか轅門(陣営の門)の外に突き刺すよう命じた。それから紀霊と劉備をふりかえって言うには、「轅門はこの中軍から百五十歩離れている。もし私が一矢であの戟の枝刃を射当てたなら、ご両所は戦いをやめられよ。もし命中しなかったら、おのおの陣営にもどり、戦いの準備をされるがよい。」

井波律子訳『三国志演義(一)』 講談社 2014

呂布は軽く酒をあおった後、矢を見事画戟の枝刃に命中させて仲裁を成立させてしまう。

このくだりについては、子供の頃読んだときから不思議に思っていた。いくら呂布が人間離れした弓技で矛を射たといっても、どうして紀霊将軍は主命に背いてまで小沛から引き揚げなければならなかったのだろう、もし自分が紀霊将軍の立場だったら、ゴネまくって呂布との約束をうやむやにして、予定通り劉備を小沛に攻めるのに、と。

この不可思議なエピソードは正史『三国志』魏書・呂布伝にも所載されている。

今、この射戟のエピソードを改めて読んでみて、紀霊将軍の承知のわけは一応以下のように想像できる。

当時としては、人知を超えた技に対して、呂布の言った通り「天の意思」として尊重するという常識があったのだろう。おそらく紀霊将軍は百五十歩先の矛の枝刃を狙えるほどの射技を身につけた武人と、それまで出会ったことがなかった。呂布がそれを成し遂げたとき、紀霊将軍は本当に、酔いに身を委ねた呂布の体に鬼神が乗り移り、天の意思として矢を当てたのだろうと思ったに違いない。あるいは、矢の命中にこの戦の先行きの「験の悪さ」を感じて撤兵を判断した、という現実的な見方もあるかもしれない。

もしかして、呂布も自信などさらさら無くて、鬼神に力を借りる思いで酒を仰ぎ、「ええい、ままよ!」と矢を放ったのか?

おそらくそれは違う。放った矢が神霊の力によって偶々矛に当たったのでは、呂布としては劉備に「恩を売った」ことにできないからだ。

『演義』中の呂布は劉備に対して「あなたを救いに来た」だの「私がいなければ危ないところだった」だの、ここぞとばかりに仲裁の功を恩着せがましく強調して、かつて自分が劉備から徐州を奪った負い目を相殺しようとする。

ともあれ、ここでは彼のアクロバッティックな外交能力に刮目しなければならない。

「矢が矛に当たるも当たらぬも天命次第」という紀霊将軍に対するロジックと「己の武技一つで仲裁を成立させた」という劉備に対する言い分は、論理的には両立しない。

人間離れした神射をここ一番で披露する豪胆さを持ちながら、同時に紀霊将軍の神霊に対する謙虚さにも身を置くことができ、方や射戟の結果を専ら自分の手柄として劉備には恩義を売りつける、そういう懐の深い才覚をもった人物だけが「轅門射戟」の裁定を成立させることができる。

呂布はこの後、目まぐるしく変化していく中華の情勢に翻弄され、部下の統率にも失敗して自滅する。その様は正史でも演義でも同工異曲である。

ではあるけれど、「轅門射戟」は粗暴で短慮な猪武者なだけではない呂布の一面を明らかにしてくれる。

『演義』では、縄を打たれて曹操に処刑を言い渡される呂布が、

「大耳野郎め、轅門で戟を射当ててやったときのことを、忘れたのか。」

井波律子訳『三国志演義(一)』 講談社 2014

と劉備に吐き捨てるように言う。矛を射当てたときの恩着せがましさは、呂布の未練を引き立てるための伏線としてここで回収される。