正史『三国志』と小説『三国志演義』との間を妄想が行き交う読み切りエッセイ。
不定期に配信され、断りもなく終わると思いますがご容赦ください。
「轅門射戟」(えんもんしゃげき)
『三国志演義』 には、剛勇無双の呂布が神懸った射技を見せる場面がある。「轅門射戟」(えんもんしゃげき)と呼ばれるエピソードだ。
揚州・寿春の袁術は宿敵の劉備を討つべく、将軍・紀霊に軍勢を預けて徐州の小沛へと差し向ける。両軍が対峙しているところへ徐州の下邳から手勢を率いた呂布がやってきて、いぶかしむ紀霊・劉備らを強引に酒宴の席に招くのである。
井波律子訳『三国志演義(一)』 講談社 2014
「ご両所、無用の戦いをしてはならない。なにもかも天命なのだ」と言うや、左右の者に対して、画戟を受け取って、はるか轅門(陣営の門)の外に突き刺すよう命じた。それから紀霊と劉備をふりかえって言うには、「轅門はこの中軍から百五十歩離れている。もし私が一矢であの戟の枝刃を射当てたなら、ご両所は戦いをやめられよ。もし命中しなかったら、おのおの陣営にもどり、戦いの準備をされるがよい。」
呂布は軽く酒をあおった後、矢を見事画戟の枝刃に命中させて仲裁を成立させてしまう。
このくだりについては、子供の頃読んだときから不思議に思っていた。いくら呂布が人間離れした弓技で矛を射たといっても、どうして紀霊将軍は主命に背いてまで小沛から引き揚げなければならなかったのだろう、もし自分が紀霊将軍の立場だったら、ゴネまくって呂布との約束をうやむやにして、予定通り劉備を小沛に攻めるのに、と。
この不可思議なエピソードは正史『三国志』魏書・呂布伝にも所載されている。
今、この射戟のエピソードを改めて読んでみて、紀霊将軍の承知のわけは一応以下のように想像できる。
当時としては、人知を超えた技に対して、呂布の言った通り「天の意思」として尊重するという常識があったのだろう。おそらく紀霊将軍は百五十歩先の矛の枝刃を狙えるほどの射技を身につけた武人と、それまで出会ったことがなかった。呂布がそれを成し遂げたとき、紀霊将軍は本当に、酔いに身を委ねた呂布の体に鬼神が乗り移り、天の意思として矢を当てたのだろうと思ったに違いない。あるいは、矢の命中にこの戦の先行きの「験の悪さ」を感じて撤兵を判断した、という現実的な見方もあるかもしれない。
もしかして、呂布も自信などさらさら無くて、鬼神に力を借りる思いで酒を仰ぎ、「ええい、ままよ!」と矢を放ったのか?
おそらくそれは違う。放った矢が神霊の力によって偶々矛に当たったのでは、呂布としては劉備に「恩を売った」ことにできないからだ。
『演義』中の呂布は劉備に対して「あなたを救いに来た」だの「私がいなければ危ないところだった」だの、ここぞとばかりに仲裁の功を恩着せがましく強調して、かつて自分が劉備から徐州を奪った負い目を相殺しようとする。
ともあれ、ここでは彼のアクロバッティックな外交能力に刮目しなければならない。
「矢が矛に当たるも当たらぬも天命次第」という紀霊将軍に対するロジックと「己の武技一つで仲裁を成立させた」という劉備に対する言い分は、論理的には両立しない。
人間離れした神射をここ一番で披露する豪胆さを持ちながら、同時に紀霊将軍の神霊に対する謙虚さにも身を置くことができ、方や射戟の結果を専ら自分の手柄として劉備には恩義を売りつける、そういう懐の深い才覚をもった人物だけが「轅門射戟」の裁定を成立させることができる。
呂布はこの後、目まぐるしく変化していく中華の情勢に翻弄され、部下の統率にも失敗して自滅する。その様は正史でも演義でも同工異曲である。
ではあるけれど、「轅門射戟」は粗暴で短慮な猪武者なだけではない呂布の一面を明らかにしてくれる。
『演義』では、縄を打たれて曹操に処刑を言い渡される呂布が、
「大耳野郎め、轅門で戟を射当ててやったときのことを、忘れたのか。」
井波律子訳『三国志演義(一)』 講談社 2014
と劉備に吐き捨てるように言う。矛を射当てたときの恩着せがましさは、呂布の未練を引き立てるための伏線としてここで回収される。