断想妄想三国志⑤

正史『三国志』と小説『三国志演義』との間を妄想が行き交うエッセイ。

不定期に配信され、断りもなく終わると思いますがご容赦ください。

複雑怪奇、荊州の政情

赤壁の戦いは、周瑜や龐統、孔明ら荊州・江東の人士らが策略を以てあっぱれ曹操の大軍を打ち破る 『三国志演義』の圧巻の一つになっている。また水面下に進行する、孔明と周瑜との互いの才智を掛けた駆け引きも面白い。

赤壁の戦い後、 両者の角逐は孔明の勝利という形で終わる。曹操撤退後の荊州の南郡(なんぐん)に拠る曹仁(そうじん)と、これを攻めあぐねる周瑜を尻目に、孔明は隙をついて趙雲に南郡を奪わせてしまう。漁夫の利の荊州を得て、劉備陣営の飛躍がここから始まるのである。

正史でのこの頃の劉備と孫権・周瑜の関係は複雑怪奇、そして胡乱。

ただ結論めいたことは、風篁楼というサイトの管理者”いづな”さんが「三國志修正計画」で指摘されている。

孫呉にとっての劉備は極めて独立性の高い傭兵に過ぎません。夏口に到達した時点での兵力が、先主伝の通りに万余だったとしても、その兵力を養う資は無く、同盟と呼べるような関係は孫権との間に成立しません。諸葛亮が孫権と交渉したのは劉備の兵に食い扶持を与える事で、赤壁の褒賞は傭兵契約の更新と、荊南経略という実務の提供でしょう。

いづな ”風篁楼:趣味の東アジア史抄事典 三國志修正計画(呉書周瑜魯粛伝)” <http://home.t02.itscom.net/izn/ea/index.html>

正史上では、赤壁の戦い後の建安14年(209年)頃、劉備陣営が荊州南部一帯を手中にするに至って尚、劉備と孫権との関係は対等でなかったと見た方が良いと私も思う。

  • 曹仁の籠る江陵城を攻めるときに、劉備と周瑜が互いの兵を貸し合う。(呉書・周瑜伝の裴松之注『呉録』)
  • 荊州安定後、劉備はわざわざ孫権の本拠地・京口に赴く。(蜀書・先主伝)
  • 孫権に対して荊州の都督になりたいと申し出る。(呉書・魯粛伝)
  • その際、周瑜は孫権に対し「劉備以梟雄之姿、而有關羽・張飛熊虎之將、必非久屈為人用者」(劉備は野心のある英雄であって、関羽や張飛といった勇猛な武将を率いているから、必ず人の下に屈して命令に従うような人物ではない。)と言っている。 (呉書・周瑜伝)

劉備が孫権や周瑜から独立した”第三極”だったとしたならば、これらの『三国志』本文や注釈の記述は違和感がありすぎる。これらを整合的に解釈するためには、劉備が(少なくとも建前上は)孫権陣営の傭兵隊長に過ぎなかったと考えるよりない。

半生を寄食客居で過ごしてきた劉備のことだから、孫権にも頭を下げることなんてヘッチャラだったに違いない。

赤壁の戦い前後、合肥の戦線で手一杯だった孫権にとってみれば、荊州を手に入れた周瑜や劉備が自身の統制から離れて独立不羈の第三勢力へと成長していくのを恐れていたはずだ。

実は劉備が京口の孫権を訪れたとき、

  • 周瑜は先の発言に加えてさらに 、「劉備を呉に留めて飼い殺しにして、自身(周瑜)が関羽や張飛らを率いて天下統一を成し遂げよう」という献策を孫権に対して行っている。(呉書・周瑜伝 )
  • 孫権は「北方には曹操が健在だから、多くの英雄を手なずけなければ」とそれを聞き入れない。
  • 荊州に帰還することになった劉備は、別れの宴席にて孫権に「周瑜はいつまでも人の下に仕えてはいませんよ」と不穏な言葉を残す。( 呉書・周瑜伝 の裴松之注『江表伝』 )

と、孫権・劉備・周瑜が互いに牽制合戦を演じている。そもそも孫権が先だって妹を劉備に娶せて修好を確認したのも、周瑜への警戒あってのことだろうし。

この複雑な三者の関係があってこそ、これに輪をかけてミステリアスな、というか胡散臭さ芬々のメッセンジャー・魯粛に暗躍の余地が生じるわけだ。

(次回へと続く)

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