正史『三国志』と小説『三国志演義』との間を妄想が行き交う読み切りエッセイ。
不定期に配信され、断りもなく終わると思いますがご容赦ください。
孔明と魏延
『三国志演義』上の魏延は、関羽が荊州の長沙(ちょうさ)に攻め寄せた際、城内で反乱を起こして長沙太守の韓玄(かんげん)を殺害し、関羽に投降したことになっている。
関羽がお目通りさせるべく魏延を連れて来ると、諸葛亮は引きずり出して斬れと、衛兵に命じた。劉備が驚いて諸葛亮に尋ねた。
(劉備)「魏延は手柄こそあれ罪はない。軍師はどうして殺そうとされるのか。」
(諸葛亮)「その禄を食みながら主君を殺すのは不忠です。(略)私の見たところでは、魏延は頭のうしろに反骨(突き出た骨)がありますから、先々必ず謀反するでしょう。だから先に斬って、禍根を断つのです」
(劉備)「この男を斬れば、降伏した者たちが自分も危ないと考えるだろう。どうか軍師には許してやってもらいたい。」
(諸葛亮)「今しばらくお前の命を助けてやるから、忠義を尽くして主君にご恩返しせよ。二心を懐いてはならぬ。もし二心を懐くことがあれば、私はどうあろうともおまえの首を取るぞ」
井波律子訳『三国志演義(二)』 講談社 2014
『演義』は、「君臣の義を分かりやすく押し広める」道徳小説なので、不忠をはたらいたものは、忠臣の鑑のような諸葛亮に容赦なく断罪される。
かつそれを利用しながら、人相観としての孔明のミステリアスさを演出しつつ、後の魏延の諸葛亮に対する反目の伏線も張る。『演義』の巧みなプロットの一つだ。
正史では?
魏延は劉備にかなり厚遇されていたようだ。
益州侵攻の際には一部隊長だったにも拘らず、手柄を積み重ね、建安二十四年(219年)に劉備が漢中王になった際には、督漢中・鎮遠将軍・領漢中太守に抜擢された。荊州以来の新参家臣だったのに、宿臣の張飛をかわして一躍対魏の前線司令官になったわけだ。大出世である。
劉備から直に漢中を任せされたという自負からも、 北伐時に自分よりも軍事キャリアの短い孔明の丞相府の言いなりになるのは耐えられなかったのだろう。魏延は常に孔明とは別行動をとりたいと願い出たが、許されず、臆病な孔明を恨んでいたらしい。
割と劉備の寵臣・宿臣に対しては「気遣いい」な孔明のことだ。荊州失陥から夷陵の敗戦、劉備の病死で立て続けに古参の軍府が壊滅した後、彼にとっても魏延は最後の”目の上の瘤”だったかもしれない。
そういう正史上の材料を、『演義』側も抜け目なく利用する。
第一次北伐で孔明と別行動を取って、夏侯楙(かこうぼう)の守る長安を急襲したいと申し出た『魏略』のエピソードはそのまま所収されている。
これに加えて『演義』では、箕谷で孔明の命令を聞かずに進撃して伏兵に遭った挙句陳式に罪をなすりつけたり、上方谷の戦いで孔明に司馬懿もろとも焼き殺されそうになって怒り狂ったり、気の毒なほどに魏延の驕慢さと不平っぷりを示すフィクションが盛り込まれている。
極めつけは孔明最後の北伐、五丈原陣中のくだりである。
孔明は天文を観察して自身の寿命が長くないことを知るが、姜維の勧めに従って、余人を退けた祭壇で七日七晩延命の祈祷を行うことにした。祈祷は六日間順調に進んでいたが、翌七日目、魏軍の襲撃を報告しに魏延が孔明のもとへズカズカとやって来て、祭壇の灯りの一つを踏み倒して消してしまう。孔明はついに自分の寿命が尽きたことを悟ったのだった。
もちろんこれもフィクションなのではあるが、まるで魏延が孔明を殺したことになっている。
劉備への仕官から孔明の死に至るまで、『演義』は魏延の不義の吹聴に全く余念がない。
もう一度正史に戻ろう。
五丈原陣中での孔明の没後、魏延は継戦を主張するが、他の将領たちはそれに従わず早々と撤退してしまう。勇猛な叩き上げ軍人・魏延と孔明の補佐官( 丞相長史)の立場にあった楊儀(ようぎ)との間の統帥権継承争いは結局楊儀の勝利に終わり、配下の士卒にも見放された魏延の進退は極まり、馬岱(ばたい)に斬り殺される。
大黒柱・孔明を失った直後にもかかわらず、結局魏延のクーデターはさして大規模な騒乱に至らなかった。迅速な丞相府の動きの背後には「魏延が従わない場合は、彼だけ残して撤退して良い」という、死に際の孔明の指図があった。
さすがは組織統治のプロフェッショナルの孔明だ。自分の死後の紛争を察知しての周到な対応に、その深謀遠慮ぶりが表れる。
「死せる孔明」が走らせたのは、仲達(司馬懿)ではなく魏延だったというべきかもしれない。