史上最低の王座戦はなぜ生まれたか【UFC.248】

*書き方を模索中なので前回投稿と口調や構成がずいぶん違いますがご容赦を。

2020.3.7『UFC.248』
女子ストロー級タイトルマッチ
 〇 ジャン・ウェイリー vs ヨアナ・イェンジェイチック ●:5R判定2-1
  ※ウェイリーが王座防衛
ミドル級タイトルマッチ
 〇 イズラエル・アデサンヤ vs ヨエル・ロメロ ●:5R判定3-0
  ※アデサンヤが王座防衛

最高の女子軽量級王座戦からの、最低の男子黄金階級王座戦

ダブルメインの1戦目の女子ストロー級タイトルマッチは昨今まれに見る好試合になった。つい先日まで圧倒的な強さで君臨したイェンジェイチック(ポーランド)が、コロナ問題への奮起も追い風にするアジア人初のUFC王者ジャン・ウェイリー(張偉麗・中国)を相手に王座奪還を狙ったこの一戦は、男子顔負けのハイレベルな死闘の末にウェイリーの防衛で幕を閉じた。その時の会場には外国人・軽量級・女子選手への軽視は無く、ただただ両選手への敬意が溢れる素晴らしい雰囲気となった。翌日に米国人記者が「悲劇的なほどに美しい」などと絶賛した試合はちょっと記憶にない。
この最高の雰囲気で迎えた2戦目: イズラエル・アデサンヤvsヨエル・ロメロのミドル級タイトルマッチが、一転して史上最低と評される消極的な展開になるなど、誰が想像していただろう。

1R、いつもならフィジカルエリートの面目躍如と言わんばかりにガス欠上等で動く挑戦者ロメロが、ガードを固めて動かない。まさに「動かざること山の如し」。トリッキーな攪乱先方を身上とする王者アデサンヤも、あまりの動きの無さに警戒して入れない。この状態がなんと3分も続いた。
その後唯一、展開を作ろうとして動いたアデサンヤの顔面を、ロメロがオーバーハンドフックでとらえるシーンが生まれる。ロメロがこれを狙っていたのは明白だった。だがまだ1R、かつ若くて耐久力も回復力も高いアデサンヤはさしたるダメージを感じさせず試合を続行しラウンド終了。この時点ではその後どんな展開になるのかと期待を感じるものとなった。

ところがここから問題が起きた。なんとこの一戦はその後の2~5Rまでほぼ全てこの展開に終始したのである。
動かないロメロ。動けないアデサンヤ。動き作りを試みるアデサンヤ。応じないロメロ。会場から飛び交うブーイング。困惑で凍りつく実況席。優劣をつけるのが難しい内容の中、結果はアデサンヤの防衛となった。
試合後のマイクでロメロは「これが王者の戦いか?」と荒ぶった。直前の女子王座戦とのコントラストも効いてしまったと言えるが、それにしても消極的だった。愛ある名物解説で知られる大沢ケンジをして「史上最低」と言わしめる結果となった。

膠着する試合展開自体は過去もあった

この試合を見て個人的に思い出したのは、09年大晦日に日本で行われたミノワマンvsソグジュ戦だ。
当時まだ珍しかったアフリカ出身選手特有の規格外な身体能力を誇るソグジュに対し、正面突破では木っ端微塵にされる日本人のミノワマンは、これでもかと時間を使って“お見合い”を続けた。そして試合終了直前、ミノワマンが一瞬の隙を突き、フックによるKO試合を締めくくった。
この試合は観客のお行儀が良い日本で開催されたこともあってブーイングこそ起きなかったものの、レフェリーによる注意が何度も入っていたし、会場(当時現地観戦した)も困惑していたことから、状況はよく似ていたように思う。あまりに膠着時間が長かったことで、確かにソグジュに当ててダウンはとったのに、ストップが早かった、レフェリーが会場の空気を忖度して決着を早めたのでは、との声すらもあった。(これは私は不支持。ストップは妥当だったと今でも思う)
このように書くと確かに今回のロメロvsアデサンヤはその再来かと思ってしまうが、実際には違う。決定的に異なる点がある。

ロメロの戦術は護身術

今回のロメロの戦術の柱が「カウンターの左オーバーハンドフック」だったことは間違いない。アデサンヤの“攪乱ダンス”に付き合わず、焦れたアデサンヤが雑に攻めてきたところを一撃で斬って落とす、というものだったと思われる。
この戦術は確かに撹乱戦法タイプのアデサンヤには有効と言える。撹乱戦法は両者が動きを積極的に読み合う状態でこそ効果を発揮するため「笛吹けど踊らず」で対抗するのは典型的な対抗戦術の1つである。またロメロは元来スタミナに難があり、全力疾走→ガス欠→でも気合で動ききる、という(有効だが)強引なスタイルで勝ってきた。よってラウンド数が増える王座戦に際して省エネ化を意識した可能性もある。
しかしこの戦術には展開が二元的になるというデメリットがある。狙っているカウンターが外れたら、その一撃に集中して賭けているあまり二撃め三撃めに繋げられない。良くも悪くもその一撃の成否に全てが懸かってしまうのだ。そしてそれより更に大きなデメリットは「相手が攻めてこないと倒せない」ことである。

この性質を有効に使っているのが護身術である。護身術の目的は「自分が無事に生還すること」であるため、もちろん相手を倒すことができればそれでOKだが、強力なカウンターをちらつかせることで相手を警戒させ攻めてこなくさせられればそれでも目的を達することになる。自身の被弾リスクを考えればむしろ後者の方が上等とする向きすらある。従ってロメロの戦術は格闘技の戦術の1つとしては定石の1つなのである。
だからこそここで問題にしたいのは、この護身術的戦術を今回のロメロがとるべきだったか、という点である。確かにロメロの戦術は負けづらい。だがリングに上がる者の目的は果たして「生還」なのか。相手を無力化すれば良い、なのか。観客やPPV視聴者の求めているのはそういう内容だったのか。

ミノワマンとロメロが決定的に違ったのは、同じ膠着試合の中にあってもミノワマンは「相手を倒すこと」を模索していたことだ。最終的にはリスクテイクして踏み込んでフックを放ったわけで、倒すことを目的にしていなければこの決断はできなかったはずだ。

アデサンヤから動きは作れなかったのか

試合後マイクを向けられたロメロはアデサンヤを責めた。真の戦士の戦いをしに来たのに、この消極的な戦いぶりはなんだ、警戒して攻めてこない姿勢はなんだ、と糾弾した。既述のようにロメロからすれば攻めてきてくれないと勝ち筋が無いので、言わば「勝てる機会を潰された」という怒りが透けて見えた。
12歳も年上の先輩からこのように辛辣に怒られてしまったアデサンヤだが、では彼はどう動くべきだったのだろうか。答えとしては「やれることはあまりなかった」だと思う。

先にも述べたように攪乱戦法に対し「反応しない」は定石の1つである。ではそうされた攪乱戦法の使い手側はどうするかと言うと実は特別な二の矢は無く、その攪乱行為を加速させるしかない。とにかく相手の心理を動かして動揺・困惑させることが必要なので、そのために色々な仕掛けをしていくことになる。カウンターのタックル→寝技を得意としていた須藤元気や青木真也はこういった攪乱が得意で、強引にでも一瞬「?!」と思わせる=隙を作るために相当奇抜な引き出しをたくさん持っていた。ある意味セクシーコマンドーにも近かった(知らない人は検索)。
だがそんな奇抜な打ち手とて、結局は相手が自分を倒しにきていることが前提なのである。同じ1つの成果=目的を獲り合って対峙する関係だからこそ相手の動きを見るのであって、目的が違うなら競争もコミュニケーションも成立しない。倒してやろうと思って攪乱する行為も、相手が(事実上)「倒さなくてもいい」というスタンスなら、全く噛み合わない。
企業の現場でもそうだ。例えば戦略コンサルタントが練り上げた渾身の成長戦略も、提案先の企業が成長ではなく存続を求めている場合にはほとんど響かない。同床異夢では良い作品は作れないのである。

ロメロのせい?アデサンヤのせい?

このような事態に陥ることを、現場で回避することはできなかったのか。ロメロの論法に従えば「ロメロの誘いに乗るようアデサンヤが攻めればエキサイティングな試合になったし、チャンピオンならそれをするべきだった」ということになる。
確かにアデサンヤがリスクを冒して踏み込めば互いの攻撃がヒットする確率は上がった。結果としてKO決着になる可能性は上がっただろう。
だがアデサンヤにすればそれは勝ち筋から離れることを意味しており、ロメロを倒すというミッションに対する背任行為に外ならない。確率が上がると言ってもそれが主にアデサンヤが倒れる確率であるなら選択に合理性はない。

もしそれでもなおアデサンヤがその行動に出るとすれば、そのモチベーションは「このままだと試合が盛り上がらない」という王者の矜持、ということになるのだが、それが通るとしたら王者とはあまりにも損な役回りではないか。
2019年8月に日本のRIZIN.18で、当時絶対王者の地位を築いていたバンタム級チャンピオン堀口恭司が、超新星の朝倉海にKOで敗れる波乱があった。この試合に味噌をつけるつもりはないが、堀口側が通常よりも不利な条件で戦いに臨んだのは間違いない。短期間で有力選手と連戦してきた堀口の映像データは豊富にあったのに対し、実力は高いが試合から離れていた朝倉の映像データはほぼ無かった。どちらが対策を立てやすかったかは言うまでもない。それなのに堀口が試合を受けたモチベーションはひとえに王者としての矜持であり、その結果として討ち取られたために「伏兵に沈められた」というブランド棄損だけが残った。納得ずくで受けた仕事とはいえ損な役回りであり、ましてや「王者なんだから」と受諾を強いるのは酷ではないだろうか。

というわけでやはり今回の責任はロメロに問いたい。確かに今回の左オーバーハンド一本狙いは有効な作戦だとは思うが、興行である以上はその試合はエキサイティングでなければならず、そのためにはお互いの目標が「倒すこと」でなければならない。その目標の半分を放棄した戦術をとったという意味で、ロメロの責任は重い。
色々書いたが要するに「気持ちはわかるがこんな試合ばかりしていたら客が離れてカテゴリ自体が沈んでしまうのだからやっぱりロメロが悪い」ということである。

泣いてロメロを

さてロメロやアデサンヤを責めるのは簡単だが、アデサンヤはもちろんのこと、ロメロですら悪意を持ってやったことではない。だから条件が揃えば再発してしまうし、起きてしまってからでは修正が利きづらいのが今回の出来事。ではこれからUFC運営はどうすべきだろうか。
現状の格闘技界でこのような事故への防止策として行なわれているのは「減点」である。アグレッシブでない選手に対し注意からの減点を与え、不利な立場を与えて戦術変更を促すというものである。今回の試合を見ていると、レフェリーは確かに注意を与えているが、あの内容にしては注意の回数が少なく強度も低い印象を受ける。まずはここに手をつけるべきだろう。
それ以外で考えられるのはルールや出場契約の中に定量的な制限や基準を設けることだが、これは難航が予想される。積極性を定義づけることがまず難しいし、仮に攻撃回数などで定量化しようとかいう話になるともう泥沼だ。

だがそれでも、今回を契機にaggressive fightをもっと促す流れが生まれれば良いと思っている。方法は簡単だ。契約書の中に「選手らしからぬ消極的な戦いに終始した場合は後からファイトマネーの一部ないし全部を没収することができる」とあえて定性的に盛り込めばいい。「ロメロ条項」とでも呼んでしまえ。
強権的だ、非現実的だ、という人がいるかも知れない。だがこれは結局のところビジネスだ。市場の健全性を守ることには十分な大義があるだろう。考えてもみてほしい。今回最高の試合をしたイェンジェイチックもウェイリーもファイトマネーは10万ドル。対し最低の試合をしたロメロは35万ドル、アデサンヤは50万ドルだ。もし今回のことを放置したら、果たして女子2人は今後も同じパフォーマンスをしてくれるだろうか?

ロメロは試合後の記者会見で「あいつ(アデサンヤ)のローキックなんか効いていない」と豪語するやおもむろに立ち上がり、ドヤ顔でサルサのステップを踏んで見せた。全く悪びれる様子はなく、自己正当化を続けている。
だが一方で試合後にインタビューを受けたUFC社長のデイナ・ホワイトはこう語っている。
「ロメロは既に40歳を越えていて、今回が最後のタイトル戦になる可能性があったんだ。その彼がこんな戦い方をするとは思ってもみなかった」

泣いて馬謖を斬る。そのための鯉口は、意外とあっさり切られるのかも知れない。

足を止めたら打たれるのだ

亀田一家がJBC(日本ボクシングコミッション)を相手取った裁判で、東京地裁は1月末、JBCに対し亀田一家へ4,500万円を支払うよう命じる判決を下しました。
この裁判は亀田一家がJBCから不当な圧力を受けたとして訴えていたもので、その言い分が認められたことになります。
JBCの運営はこれでかなりまずくなるようです。一言で言うと「支援がなければ破産」。
なんでも現金相当物が600万円しかないのだとか。まじか。

JBCの危機的な資金繰りについては専門に書かれている記事があるのでそちらに譲るとして、なぜこうなったか。
それは「市場環境の変化を無視した」ことだと思います。

日本におけるボクシングの歴史のうち、2000年代前半は注目すべき時期です。
スポーツの人気度の一端は競技人口の多さに現れますが、ボクシングではプロライセンス登録者数がその指標と言えます。
その登録者数が最大だったのが2004年で、約3,600人のプロ登録者がいました。これは現在の1.5倍以上に当たります。
単年でのプロテスト受験者数が最大を記録したのも2003年でした。
つまり2000年代前半はボクシング人気のピークだったと言えます。

この時ピークを迎えられた原因として特筆すべきなのはリアリティショー『ガチンコファイトクラブ(1999~2003)』の存在です。
ガチンコ~の直前から同時期にかけて同じくリアリティショーの『ASAYAN(1995~2002)』があり、モー娘。を輩出する成功を収めていますから、リアリティショーの手法を格闘技に応用した新結合=イノベーションがガチンコ~だったと言って良いでしょう。
つまり2000年代のボクシング人気は、もともと競技として十分な知名度があったところにリアリティショーの手法を上乗せしたことで得られたものでした。

しかし、ここからがポイントなのですが、その2000年代前半の時点でボクシングの立場は盤石ではありませんでした。
強力な競合がちらついていたからです。K-1とPRIDEです。
K-1はもともと多数派に分裂してしまっていたキックボクシングを地上波コンテンツ向けに再編したものであり、ボクシングの目線から言えば弱体化していた競合が舞い戻ってきたような存在でした。
一方のPRIDEは新興勢力で、倒れた相手を追撃してぶん殴っていいという強烈なインパクト・非日常性を持っていました。
ボクシングの失策は、ファイトクラブは良いとして、その時既に出現していた競合に対しては無策だったことです。

競合関係という視点で見るとボクシングの旗色は悪いものでした。
まずK-1もPRIDEもはいずれもボクシングより“リアル”に見えました。簡単に言えばより喧嘩に近かった。最強を追い求める少年漫画的な世界観がよりフィットするコンテンツはルールに制限が少ないK-1やPRIDEでした。
またどちらの競合も戦略としてスターシステムを投入していました。スターシステムとは特定のスター選手を擁立して人気を牽引させる手法です。これはスターの発掘作業や発掘後のスターへの負担が大きい諸刃の剣なのですが、ハマれば効果は絶大です。そしてK-1は外国人選手や魔裟斗、PRIDEは桜庭和志というスターを見事に発掘し推してきていました。
そもそも「格闘技好き」というニッチな市場に対し競合が2つも出現したら単純計算でも市場が三分されてしまうのですから苦境は当然です。よってこの時のボクシング界は死に物狂いで地位を確保せねばならない局面にありました。
ガチンコファイトクラブはその対抗策の1つとしても機能しましたが、コンテンツとしての刺激性に勝るK-1やPRIDEに押されていったことは明らかでした。
そしてK-1やPRIDEに対し明暗が分かれ始めた頃に現れたのが、強烈な個性を持つ亀田一家でした。

亀田一家の“活躍”については割愛しますが、大いに物議を醸しました。
今で言うアンチがたくさんついたわけです。
パフォーマンス偏重だ。KOできてないじゃないか。 実力が怪しい。 …。
色々な声が挙がっていました。

しかし、ここで「そもそも」論に戻ってみると。
そもそもスポーツビジネスとは衆目を集めることが価値なのです。ショービジネスだからです。
その観点で亀田一家のやってきたことを振り返ると、いずれも衆目を集めることに繋がっており、行動と目的とにアラインメント(整合性)がとれています。

もっと深掘りします。
アンチ亀田一家の根拠の1つはガラの悪さですが、ガラの悪さを足場にメディアに出て衆目を集める人は格闘家でなくともたくさんいます。
また判定決着の多さも根拠でしたが、勝たなければ衆目を集められない以上、結果的に判定決着が多くなるのはあり得る話です。
実力への疑問符も、ランクインのために弱い相手を呼ぶのは常套手段ですし、王座挑戦権を売買するのは「オプション」としてボクシング界でも許されている行為です。

つまり亀田一家は、確かにそれまでにないニュータイプの劇薬に一見みえましたが、冷静に考えればそうでもなかった のです。
従って当時のボクシング界は、亀田一家に対して支持に回ることもできたし、不支持に回ることもできたのです。
その選択肢がある前提で当時の市場環境=K-1やPRIDEがインパクトとスターシステムで攻め込んできていることを考えれば、ボクシング界がとるべき戦略は「亀田支持」だったと考えます。

しかしJBCはじめボクシング界は最終的に「亀田不支持」を選択しました。
その理由は色々あるのでしょうが、根本的には「JBCやボクシング界が考えるボクシングブランドに合わない」だったことは容易に想像がつきます。
ひたむきで地道な求道者。それが当時も今もボクサーの理想像であり、世間から求められている(とボクシング界が思っている)ものです。
そういう意味ではボクシング界は昔から貫いてきたポリシーを再度貫いたにすぎません。
しかしこの選択は悪手でした。競合が存在しない市場においてはブランド価値の上がる良い打ち手ですが、競合が存在している市場においては単なる独りよがりだからです。

このように言うと反論として「今の村田諒太や井上尚弥を見てみろ。彼らは亀田一家のような過剰な煽りはしない。実直でひたむきなチャンピオンであり、その選手が今人気を牽引しているじゃないか」という意見が出てくるでしょうが、その意見は適当ではないと思います。
まず彼らは戦績が異常にずば抜けています。試合だけで魅せられる超弩級の選手がたまたま出てきただけです。井上尚弥は取り上げられても一緒に試合をした伊藤雅雪はろくに取り上げられていません。
また彼らは自身でメディアに出てPR活動もしています。亀田一家ほど強烈でないにしろ、本分である練習時間を削って出ているのですから、やっていることは同じです。
村田諒太や井上尚弥を推す施策には再現性・継続性がなく、かつ亀田一家へのアンチテーゼでもないのです。

何が言いたいかというと、まじめにひたむきに頑張っていても、周囲を見ていないと環境の変化に対応できず競争に負けるということです。
これは何もボクシングに限った話ではありません。日本の製造業の多くががまさに直面している問題と言えます。
もしJBCやボクシング界が「市場環境が変わった」と認識していたら。ゲームのルールが変わり、有効な施策が変わったと認識できていたら。亀田一家が従来の路線と対極にいたとしても、それを承知で活かす手を打てたのではないでしょうか。
それができずに劇薬として疎んじた結果が、この4,500万円なのではないでしょうか。

足を止めたらいけないのです。まとめて打たれてしまいますから。