なぜK-1の興行はコロナ禍でも決行されたのか【K-1】

3月22日、立ち技格闘技団体K-1によって「K’FESTA.3」が開催された。さいたまSAでの1万人規模の興行は、コロナウィルス感染拡大による自粛ムードに完全に逆行して開催された。
前日に埼玉県知事が「自粛要請を聞き入れてもらえなかった」と表明したことから、翌日のスポーツ紙やワイドショーでは非難の声が上がった。だが同時に「英断」とする声もある。音楽イベントなど他の大型ショービジネスや、他の格闘技プロモーションが興行を取り止める中、なぜK-1は決行したのか。

感染拡大懸念は当然あった

言うまでもなく開催には感染拡大の懸念があった。人が集まる時点で懸念があるし、応援で声も張り上げるのだから尚更だ。タイではラジャダムナンやルンピニーといった有名ムエタイスタジアムでコロナウィルスが感染拡大したと言われている。感染拡大は当然考えられる懸念であった。
しかし「だからK-1は愚かな奴らだ」と結論付けるのは早計に思う。そういう単純化は好きではないし、多分事実でもない。これだけ明らかなリスクテイクをK-1はなぜしたのか。なぜK-1は火中の栗を拾いに行ったのか。そんな観点から考察をしてみたい。

K-1=中小企業

K-1はネームバリューが強いので、よく知らない人はあたかも世界的な巨大組織と思われるかも知れないが、今の実態は中小企業と思えばいい。
かつてゴールデン帯を賑わせた華やかなK-1は2012年に経営破綻しており、そのブランドや映像使用権はファンドや他団体に売却された。そのK-1ブランドを日本の有志が資金を募って再び使用可能にし、K-1 JAPAN GROUPとして興行を打っているのが今のK-1である。一時はそのコントラストを強調すべく「新生K-1」を名乗っていた。
JAPANと銘打つだけあって旧K-1と比べると規模は各段に小さく、ゴールデン帯の地上波放送も無い。開催地も今や全て日本国内のみだ。従って現在のK-1とは、格闘技イベントを打つ中小企業であり、今回のイベント決行問題の本質は、中小企業におけるリスク判断の問題であることがわかる。
(実際には現在のK-1は実行委員会形式をとっているが、固定の運営会社もいるので、いち中小企業と考えるのが良いと思う)

海老で鯛を釣るビジネスモデル

格闘技興行は固定費型のビジネスである。設備投資がほぼないので固定費型という表現に違和感があるかも知れないが、会場費用やファイトマネー等の経費は「来場者数に関係なく一括でかかる費用」なので固定費である。客足が鈍いから仕入れを減らすといったことができない、と言えばわかりやすいかも知れない。従って設備投資こそ伴わないものの損益分岐点が高い(一定の売上に到達しないと利益が出ない)、だが分岐点を越えれば利益も大きい、という特性があり、健全な収益構造を得るためには損益分岐点を越えること、つまり客席をしっかり埋めることが重要となる。

だがこの話はあくまでも会場での入場料収入(ゲート収入)の話だ。実際にはそれ以外の収益源も考えられる。放映権料だ。
旧K-1ではこの放映権料が大きな財源になっていた。部外者なので具体的にはわからないがインタビュー等から推定するにファイトマネーは1人1試合に対し8桁に至ることもあった模様。ゲート収入でこれを賄うのは困難なので、やはり放映権料によるブーストが効いていたのだろう。しかしこれは放送してもらうことに莫大な費用がかかるハイリスクハイリターンの構えでもある。当時のK-1がこのリスクをとったのは、マス市場に進出したい思惑があったからだろう。そして一定の成功を収めたものの、最終的にはハイリスクの負の側面が表出し破産の道を歩んだ。
一方で現在のK-1はこの放映権料が安いものと推測する。既述の通りK-1の放送チャネルは深夜帯の地上波とインターネットテレビのabemaTV。ゴールデン帯の頃とは得られる金額が桁違いに低いだろうし、abemaTVは業績自体が2017年の開局以来一貫して赤字だ。以前のようにK-1へ潤沢な財源を提供しているとは考え辛い。むしろabemaに関しては宣伝効果と割り切ってほぼ無報酬でやっている可能性すらあると見る。

興行の前に高額の固定費を支払うのに、放映権料など間接的な収入には以前ほど期待ができず、会場をきっちり埋めることでようやく利益が出る。K-1の興行ビジネスはまさに「海老で鯛を釣る」ようなものと言えるだろう。

K-1の目標は国内でのスモールサクセス

町工場のような中小企業が圧倒的な技術力で実は世界を掌握している。こんな話は美しいし素晴らしいが、実際のところそんな話を語れる事業は世に少ない。資本に勝る大企業との正面衝突は中小企業にとってやはり難しく、弱者なりの成功=スモールサクセスを目指すのが現実的だ。そもそも事業というのは存続しているだけで価値がある。よってこのような弱者の戦略は何も恥ではないし、むしろ「ニッチャー戦略」「差別化戦略」等の言葉で支持される上等な戦略だ。

現在のK-1もその例に漏れずスモールサクセスを目指している。旧K-1は強い資金力とコネクションを武器に立ち技格闘技というジャンルを世界のマス市場に訴求したが、今は資金調達が難しくなっているうえにGLORYなど大型の競合もいる。従来の戦略はもはや通用しない。その観点で現在のK-1の興行内容を見ると、明らかにマス市場への訴求を捨て特定市場にターゲットを絞り込み、ターゲットを確実に満足させる打ち手を揃えている。隆々としたグローバル組織にはなれなくとも、日本で確実に事業を続けていくという意思が感じられる。実際K-1 JAPAN GROUPは目標を「100年続く事業」と公言しており、全体的に整合性が感じられる。

<現在のK-1におけるダウンサイズの例>
●会場動員規模
  旧K-1:2~4万人、最大9万人 → 現K-1:0.5~1万人
●開催国
  旧K-1:半分は海外 → 現K-1:9割が日本、2014年以降海外開催なし
●提供チャネル
  旧K-1:地上波全国ゴールデン
  → 現K-1:地上波ローカル深夜帯、インターネットテレビ

「Kの箱庭」

K-1はしばしば「帝国」「村」「集落」等と表現される。その心は「閉鎖的」という意味だ。世界を標榜してはいるが開催地は日本だけだし、ある程度決まった選手で試合を回している感が否めない。階級間が狭いので行ったり来たりして対戦カードを回しているケースもある。外国人選手はたまに織り交ぜるスパイス程度で主食はやはり日本人選手。未知なる強豪の発掘を是とした旧K-1とはかなり違うし、最強を追求する格闘技の本質からすら外れていると言っても過言ではない。これだけを聞くと、スモールサクセスが目標とはいえ、大丈夫かと不安もになる。

ところがその効果として、K-1の興行は面白い。本当に面白い。狭い世界で選手のことがよくわかっているだけに会場も試合も盛り上がるマッチメイクを組みやすい。勝って欲しい選手がいればその選手が大体勝つ。どちらが勝つかわからない試合は接戦の好試合になる。自然、会場の熱もアツい。
格闘技はその競技柄アップセットがあるため顧客の満足度が低くなるリスクが付きまとう。それをほぼ完全に無効化しているのがブック(台本)を持つプロレスだが、K-1はブックなしにプロレス並みの満足度を試みていると言ってもいいだろう。閉鎖的だからこそ発揮できる強みがここにある。

グローバルに見えて実は閉鎖的に回る世界観によってターゲット顧客の満足度を上げる。これが現在のK-1のビジネスとしての要である。だから逆にその閉鎖性を崩す行動には拒否反応を示す。旧K-1時代からの功労者であるHIROYAや、その実弟でベルトまで巻いた大雅ですら、他団体との交流戦を試みたことでK-1から追放されている。次世代のホープとして大々的に売り出されていた平本蓮も同様に放逐された。2013年から始められたオフィシャルジム制がこの閉鎖性の強化に一役買っているものと思われる。

「帝国」「村」「集落」…。様々な表現が可能だが、周到な調整の末に純度の高い世界観を作っていることに敬意を表し、ファンも含めた閉鎖的な生態系をここでは「箱庭」と呼びたい。

K-1の判断は合理的な意思決定の結果

さてそんなK-1にとって今回の事態はどう映ったか。
大会を決行すれば感染拡大の可能性がある。大丈夫と言い切る術はない。
だがゲート収入を確保せねば利益が出ず事業が続かない。よって無観客試合という選択肢はとれない。
中止すればキャンセル料がかかってくる。会場であるさいたまSAは元より、設営業者等にも無償というわけにはいくまい。よりによって年間最大イベントのK’FESTAと重なってしまったことが今となっては恨めしい。
中小企業なので高額の負債には耐えきれない。中止は簡単だがひとたびハンドルが破産に向けば坂を転がるように一気に凋落だろう。
…ざっとこんなところだろうか。

K-1はこれら状況を総合して意思決定をするわけだが、ここではその意思決定をデシジョンツリーで考察したい。

※さいたまSAの利用料は10百万円(HPに記載あり)。ゲート収入はチケット価格の中央値×10,000人=150百万円で計算。広告宣伝費を売上予想の10%、ブランド使用料を同2%とし、ファイトマネーはゲート収入がある限りは支払うこととした。違約金は支払予定金額の100%。あくまでも部外者の推算。

デシジョンツリーには、自分の意思で選択できる分岐とできない分岐とがある。この観点で今回のツリーを見ると、後半は自分の意思での選択がほぼできない。従って序盤での選択にかかる責任が重い。難しい判断だったことがわかる。

そして各ルートを評価すると、経済合理性で言えば圧倒的に「決行する」に分があることがわかる。破産に繋がるルートが2つあるが、うち1つは自分の意思で選ばないことができるため、実際に危険性と考慮すべきルートは1つだけ、それ以外は生存が可能である。逆に「中止する」を選んだ場合、金額は見えているとはいえ巨額の負債を背負う恐れがあり、事業自体も存続できない可能性が高い。

定性的な評価を付け加える。
「決行」ルートにおける最悪のルートは賠償請求されることであるが、そもそも来場者は箱庭の住人だ。感染したからといって一転してK-1を責めるだろうか。可能性はゼロではないが、心理的な部分が大きいので、会場での真摯な対応でそのリスクは減らすことができる。仮に責を問う人が現れたとしても「K’FESTAがあったから感染した」という因果関係を証明することは難しいだろう。また「決行」ルートのうち次に厳しいCons.は「壮絶な批判を浴びる」だが、ドライに考えればこれは事業に直接影響しない。収入を奪われたり賠償を求められたりするものではないからだ。しかもそもそもK-1のターゲットはマス市場ではなく箱庭なので、ターゲット外のセグメント(普段K-1に興味がない人)から批判されても実業への影響は少ない。いつも何の報道もしないワイドショーや夜のニュースが俄かに騒いだところで箱庭の中には大して響かないのだ。
逆に「中止する」を選ぶとキャンセル料・違約金・チケット返金などが生じ、利益を直接的に圧迫する。特にチケットの返金は相当の重荷となる。「では返金しなければ良いでは?」という声が聞こえてきそうだが、さすがに返金しなければファンが離反するだろう。K-1にとってファン=箱庭の住人の離反は、箱庭の崩壊を招くため、絶対に避けねばならない展開である。従ってチケット代の返金はほぼマストと考えれば、巨額の金銭負担を抱えるルートしかないのである。

以上より、K-1にとって合理的な選択肢は「決行」であり、せめてその中で感染を可能な限り減らす対応をとる(マスク配布、体温測定など)のが最善の打ち手であったことがわかる。

合理的なら許されるのか?

このように述べると、いかにもK-1が自身の利益のために公益を犠牲にした、罪もない人々にウィルスを撒き散らす蛮行を強行した、と見られがちだ。だが果たしてその断罪は適切だろうか。
上記のように最も合理的な判断をしたとしても、壮絶な批判に晒される可能性は高かった。そうなっても金銭的なダメージは少ないとは確かに述べたが、そうは言っても人間だ。人でなしと言わんばかりの壮絶な批判に馬耳東風というわけにはいかない。家族がいればなおさらだ。精神的につらいに決まっている。平時なら絶対にしない判断だ。
それでもなお決行を選択した理由は何か。考えられるのは「経済死」である。

Twitterを見ていると、経済死、即ち収入がなくなることや巨額の負債を抱えることを軽く見る人が結構いるようだ。「人命と金は比較にならない」と鼻息が荒い。
しかしその認識は間違っていると思う。収入が途絶えて生活が立ち行かなくなることは現代においては普通に生命に関わる。
個人的な話で恐縮だが、自分には学生時代に一時期1食100円の生活をせざるを得なかった時期もあるし、マイナースポーツに携わっていたので実力に反して経済的に報われない悲哀も知っている。プロ格闘家の経済事情にも触れているし、今の仕事でも不採算部門の撤退現場を経験した。「金のない悲劇」がどういうものか、私には実感があるし、怖い。

もしかしたら伝わるかも、と思って例を挙げたい。
あなたは知人を招いて会費制のパーティを主催する。来場者は300人で確定、費用は会場代含めもろもろ290万円で支払い済。会費の1人万円/人も既に徴収しており、あとは開催するだけだ。
と、ここでコロナウィルスの騒ぎが起きた。こんな人数を集めることがリスキーなのは明らかだし、公益にもとることも明白だ。
この状況下でなおあなたは中止を即決できるだろうか。
…まぁ即決できる人もいると思う。
だがもし会費の返還が不可避だとしたらどうだろうか。変換する300万円はあなたが供出しなければならない。
更にもしあなたの手元の全財産が100万円しかなく、かつ中止すれば信用を失い今の仕事を辞めねばならないとしたらどうだろうか。
そしてもしあなたが独身ではなく妻と子供がいたとしたらどうか。あなたのみが収入源で、愛する妻と子供のライフラインが今あなたにしかないとしたら。
最後に、もしその憂き目に遭うのがあなただけではなく、一緒にやってきた仲間も巻き込むことになるとしたら、どうだろうか。
それでもなお公益を優先できるだろうか。この状況で私益の確保に走ることは悪いことなのだろうか。
この構図を「人命か金か」と単純化することは不適当ではないだろうか。どちらも人命の問題なのではないか。

この問題に絶対の正解はない。公益を優先することは間違いなく正解の1つだが、眼前に迫るもっと明確な脅威である経済死を回避するために利己的な行動をすることを誰が責められようか。典型的なトロッコ問題ではないか。
そしてこの「どれも正解」「どれも不完全」な状況下でなお、しかも従業員の運命を背負って決断を迫られるのが経営者でありリーダーだ。決断しなければならない以上はできるだけ良い決断をしたい。そのためには「合理的」であることは最低限必要だし、思慮深いリスク査定や、修羅の覚悟のリスクテイクも必要になる。そう考えれば今回K-1が取った一連の行動は、極めて合理的であり、覚悟を決めたものであった。
K-1の判断がベストだったかはわからない。だが合理的ではあった。公益と私益を天秤にかけて私益を選んだことは事実だが、それによって公益がどのようにどのくらい棄損されたかは測れない。そしてこの判断のお陰で生活が守られた人が目の前にいるとすれば、その事実は揺らがない。
正解がない中での難しい判断。進んでも戻っても地獄の厳しい決断。K-1の今回のこの決断には、ただただ「お疲れ様」と労いの言葉をかけたい。

修羅の覚悟に「自粛要請」という無責任

冒頭の通り、箱庭の興行が俄かに衆目を集めたのは埼玉県知事の“タレコミ”によるものだった。箱庭とはいえネームバリューがあるK-1だけにこのコメントはマスコミやSNSの恰好の餌食となった。普段K-1に見向きもしない、新旧K-1の違いも認識していないマス市場の住人が大いに吠えた。

しかしこの自粛要請とは要するに強制力のない申し入れだそうだ。詳細は割愛するが、単なる意見表明に近い。
K-1の判断には賛否両論があっていいと思うが、この自粛要請という打ち手には怒りを禁じ得ない。

既述の通りK-1の判断は合理的でアクションも一貫している。だから当事者でなくともきちんと分析すれば「相手が取り得る行動」として必ずノミネートされる展開だったはずだ。また県知事曰く「何度も話し合った」らしいので、決行の動機に経済的事情があることや、修羅の覚悟を決めていることもわかっていたはずだ。

その相手に対し「自粛要請」で臨むとはなんという蟷螂之斧か。そんなもので止められるはずがないじゃないか。本当に止めたいと思ったのなら、なぜ強制的に止める手法をとらなかったのか。なぜK-1の悩みの根源である経済的事情の解消に動かなかったのか。あるいはなぜ「絶対に感染者を出さない」ための手助けをしなかったのか。
確かにさいたまSAのキャンセル料免除を申し出たともされている。だがよく考えれば役務提供をする前に言っているわけで、ある意味で当たり前の、何の懐も痛まないノーリスクの提案だ。第一そんなものでカバーできる損失でないことは「何度も話し合った」ならわかるだろう。それなのにノーリスクの安全地帯から中小企業に爆弾を放り込むとは一体どういう了見か。

どんな企業や事業体にだって、慈善団体でない限り営利を追求する権利がある。そのために最も合理的な判断をしてくることは予想の範疇というかど真ん中だ。そのど真ん中の行動が自身の利害と一致しないことを挙げて批判を展開するとは、思慮の浅さと調整能力のなさを感じる。
今回の一件で最も努力を怠り覚悟が無かったのは、政治だ。

覚悟の果てに

修羅の覚悟で大会をやり切ったK-1。幸いにも現時点で来場が原因とされるウィルス感染拡大は報道されていない。マスコミは興味を次の獲物に移したようで、沈静化してきている。この結果から見てもK-1のリスク査定と判断は1つの正解だったと言えるだろう。

一方で今回の騒動で格闘技へのイメージを悪くした人もいるようだが、最初から会場にも来ないし格闘技に金も落とさない人なら雑音でしかない。それよりも今回の騒動を受けイベント業界への政府支援の動きが少しだが起きたことが有意義だと思う。今回K-1は開催を決行できたが、例えば数百人規模のイベンターは決行という選択肢をとれず、何の補填も得られないまま巨額の負債を抱える例が起きている。かつて経営判断を誤って破産したK-1という組織が、見事な判断によって他業種にまで光明を与えたのだとしたら、なかなかかっこいい話だ。

最後に、今回見事なディフェンステクニックを披露したK-1だが、オフェンスはどうだろうか。
今回の一件でK-1は箱庭をより強固なものにした。住人はより強く帰依することだろう。だが箱庭には、それをコンプリートしてしまうと次の手を打ちにくいというデメリットがある。ひとたびコンプリートしてしまったら、箱庭を広げるために一度壁を崩すか、それでも壁を崩さず心中するかしかない。そして今、箱庭のアイコンとも言える人物が、中から壁を叩き続けている。
壁を崩すか心中か。K-1が抱えるこの本質的な問題は、最大の危機を乗り切った今もなお箱庭を見下ろしている。

史上最低の王座戦はなぜ生まれたか【UFC.248】

*書き方を模索中なので前回投稿と口調や構成がずいぶん違いますがご容赦を。

2020.3.7『UFC.248』
女子ストロー級タイトルマッチ
 〇 ジャン・ウェイリー vs ヨアナ・イェンジェイチック ●:5R判定2-1
  ※ウェイリーが王座防衛
ミドル級タイトルマッチ
 〇 イズラエル・アデサンヤ vs ヨエル・ロメロ ●:5R判定3-0
  ※アデサンヤが王座防衛

最高の女子軽量級王座戦からの、最低の男子黄金階級王座戦

ダブルメインの1戦目の女子ストロー級タイトルマッチは昨今まれに見る好試合になった。つい先日まで圧倒的な強さで君臨したイェンジェイチック(ポーランド)が、コロナ問題への奮起も追い風にするアジア人初のUFC王者ジャン・ウェイリー(張偉麗・中国)を相手に王座奪還を狙ったこの一戦は、男子顔負けのハイレベルな死闘の末にウェイリーの防衛で幕を閉じた。その時の会場には外国人・軽量級・女子選手への軽視は無く、ただただ両選手への敬意が溢れる素晴らしい雰囲気となった。翌日に米国人記者が「悲劇的なほどに美しい」などと絶賛した試合はちょっと記憶にない。
この最高の雰囲気で迎えた2戦目: イズラエル・アデサンヤvsヨエル・ロメロのミドル級タイトルマッチが、一転して史上最低と評される消極的な展開になるなど、誰が想像していただろう。

1R、いつもならフィジカルエリートの面目躍如と言わんばかりにガス欠上等で動く挑戦者ロメロが、ガードを固めて動かない。まさに「動かざること山の如し」。トリッキーな攪乱先方を身上とする王者アデサンヤも、あまりの動きの無さに警戒して入れない。この状態がなんと3分も続いた。
その後唯一、展開を作ろうとして動いたアデサンヤの顔面を、ロメロがオーバーハンドフックでとらえるシーンが生まれる。ロメロがこれを狙っていたのは明白だった。だがまだ1R、かつ若くて耐久力も回復力も高いアデサンヤはさしたるダメージを感じさせず試合を続行しラウンド終了。この時点ではその後どんな展開になるのかと期待を感じるものとなった。

ところがここから問題が起きた。なんとこの一戦はその後の2~5Rまでほぼ全てこの展開に終始したのである。
動かないロメロ。動けないアデサンヤ。動き作りを試みるアデサンヤ。応じないロメロ。会場から飛び交うブーイング。困惑で凍りつく実況席。優劣をつけるのが難しい内容の中、結果はアデサンヤの防衛となった。
試合後のマイクでロメロは「これが王者の戦いか?」と荒ぶった。直前の女子王座戦とのコントラストも効いてしまったと言えるが、それにしても消極的だった。愛ある名物解説で知られる大沢ケンジをして「史上最低」と言わしめる結果となった。

膠着する試合展開自体は過去もあった

この試合を見て個人的に思い出したのは、09年大晦日に日本で行われたミノワマンvsソグジュ戦だ。
当時まだ珍しかったアフリカ出身選手特有の規格外な身体能力を誇るソグジュに対し、正面突破では木っ端微塵にされる日本人のミノワマンは、これでもかと時間を使って“お見合い”を続けた。そして試合終了直前、ミノワマンが一瞬の隙を突き、フックによるKO試合を締めくくった。
この試合は観客のお行儀が良い日本で開催されたこともあってブーイングこそ起きなかったものの、レフェリーによる注意が何度も入っていたし、会場(当時現地観戦した)も困惑していたことから、状況はよく似ていたように思う。あまりに膠着時間が長かったことで、確かにソグジュに当ててダウンはとったのに、ストップが早かった、レフェリーが会場の空気を忖度して決着を早めたのでは、との声すらもあった。(これは私は不支持。ストップは妥当だったと今でも思う)
このように書くと確かに今回のロメロvsアデサンヤはその再来かと思ってしまうが、実際には違う。決定的に異なる点がある。

ロメロの戦術は護身術

今回のロメロの戦術の柱が「カウンターの左オーバーハンドフック」だったことは間違いない。アデサンヤの“攪乱ダンス”に付き合わず、焦れたアデサンヤが雑に攻めてきたところを一撃で斬って落とす、というものだったと思われる。
この戦術は確かに撹乱戦法タイプのアデサンヤには有効と言える。撹乱戦法は両者が動きを積極的に読み合う状態でこそ効果を発揮するため「笛吹けど踊らず」で対抗するのは典型的な対抗戦術の1つである。またロメロは元来スタミナに難があり、全力疾走→ガス欠→でも気合で動ききる、という(有効だが)強引なスタイルで勝ってきた。よってラウンド数が増える王座戦に際して省エネ化を意識した可能性もある。
しかしこの戦術には展開が二元的になるというデメリットがある。狙っているカウンターが外れたら、その一撃に集中して賭けているあまり二撃め三撃めに繋げられない。良くも悪くもその一撃の成否に全てが懸かってしまうのだ。そしてそれより更に大きなデメリットは「相手が攻めてこないと倒せない」ことである。

この性質を有効に使っているのが護身術である。護身術の目的は「自分が無事に生還すること」であるため、もちろん相手を倒すことができればそれでOKだが、強力なカウンターをちらつかせることで相手を警戒させ攻めてこなくさせられればそれでも目的を達することになる。自身の被弾リスクを考えればむしろ後者の方が上等とする向きすらある。従ってロメロの戦術は格闘技の戦術の1つとしては定石の1つなのである。
だからこそここで問題にしたいのは、この護身術的戦術を今回のロメロがとるべきだったか、という点である。確かにロメロの戦術は負けづらい。だがリングに上がる者の目的は果たして「生還」なのか。相手を無力化すれば良い、なのか。観客やPPV視聴者の求めているのはそういう内容だったのか。

ミノワマンとロメロが決定的に違ったのは、同じ膠着試合の中にあってもミノワマンは「相手を倒すこと」を模索していたことだ。最終的にはリスクテイクして踏み込んでフックを放ったわけで、倒すことを目的にしていなければこの決断はできなかったはずだ。

アデサンヤから動きは作れなかったのか

試合後マイクを向けられたロメロはアデサンヤを責めた。真の戦士の戦いをしに来たのに、この消極的な戦いぶりはなんだ、警戒して攻めてこない姿勢はなんだ、と糾弾した。既述のようにロメロからすれば攻めてきてくれないと勝ち筋が無いので、言わば「勝てる機会を潰された」という怒りが透けて見えた。
12歳も年上の先輩からこのように辛辣に怒られてしまったアデサンヤだが、では彼はどう動くべきだったのだろうか。答えとしては「やれることはあまりなかった」だと思う。

先にも述べたように攪乱戦法に対し「反応しない」は定石の1つである。ではそうされた攪乱戦法の使い手側はどうするかと言うと実は特別な二の矢は無く、その攪乱行為を加速させるしかない。とにかく相手の心理を動かして動揺・困惑させることが必要なので、そのために色々な仕掛けをしていくことになる。カウンターのタックル→寝技を得意としていた須藤元気や青木真也はこういった攪乱が得意で、強引にでも一瞬「?!」と思わせる=隙を作るために相当奇抜な引き出しをたくさん持っていた。ある意味セクシーコマンドーにも近かった(知らない人は検索)。
だがそんな奇抜な打ち手とて、結局は相手が自分を倒しにきていることが前提なのである。同じ1つの成果=目的を獲り合って対峙する関係だからこそ相手の動きを見るのであって、目的が違うなら競争もコミュニケーションも成立しない。倒してやろうと思って攪乱する行為も、相手が(事実上)「倒さなくてもいい」というスタンスなら、全く噛み合わない。
企業の現場でもそうだ。例えば戦略コンサルタントが練り上げた渾身の成長戦略も、提案先の企業が成長ではなく存続を求めている場合にはほとんど響かない。同床異夢では良い作品は作れないのである。

ロメロのせい?アデサンヤのせい?

このような事態に陥ることを、現場で回避することはできなかったのか。ロメロの論法に従えば「ロメロの誘いに乗るようアデサンヤが攻めればエキサイティングな試合になったし、チャンピオンならそれをするべきだった」ということになる。
確かにアデサンヤがリスクを冒して踏み込めば互いの攻撃がヒットする確率は上がった。結果としてKO決着になる可能性は上がっただろう。
だがアデサンヤにすればそれは勝ち筋から離れることを意味しており、ロメロを倒すというミッションに対する背任行為に外ならない。確率が上がると言ってもそれが主にアデサンヤが倒れる確率であるなら選択に合理性はない。

もしそれでもなおアデサンヤがその行動に出るとすれば、そのモチベーションは「このままだと試合が盛り上がらない」という王者の矜持、ということになるのだが、それが通るとしたら王者とはあまりにも損な役回りではないか。
2019年8月に日本のRIZIN.18で、当時絶対王者の地位を築いていたバンタム級チャンピオン堀口恭司が、超新星の朝倉海にKOで敗れる波乱があった。この試合に味噌をつけるつもりはないが、堀口側が通常よりも不利な条件で戦いに臨んだのは間違いない。短期間で有力選手と連戦してきた堀口の映像データは豊富にあったのに対し、実力は高いが試合から離れていた朝倉の映像データはほぼ無かった。どちらが対策を立てやすかったかは言うまでもない。それなのに堀口が試合を受けたモチベーションはひとえに王者としての矜持であり、その結果として討ち取られたために「伏兵に沈められた」というブランド棄損だけが残った。納得ずくで受けた仕事とはいえ損な役回りであり、ましてや「王者なんだから」と受諾を強いるのは酷ではないだろうか。

というわけでやはり今回の責任はロメロに問いたい。確かに今回の左オーバーハンド一本狙いは有効な作戦だとは思うが、興行である以上はその試合はエキサイティングでなければならず、そのためにはお互いの目標が「倒すこと」でなければならない。その目標の半分を放棄した戦術をとったという意味で、ロメロの責任は重い。
色々書いたが要するに「気持ちはわかるがこんな試合ばかりしていたら客が離れてカテゴリ自体が沈んでしまうのだからやっぱりロメロが悪い」ということである。

泣いてロメロを

さてロメロやアデサンヤを責めるのは簡単だが、アデサンヤはもちろんのこと、ロメロですら悪意を持ってやったことではない。だから条件が揃えば再発してしまうし、起きてしまってからでは修正が利きづらいのが今回の出来事。ではこれからUFC運営はどうすべきだろうか。
現状の格闘技界でこのような事故への防止策として行なわれているのは「減点」である。アグレッシブでない選手に対し注意からの減点を与え、不利な立場を与えて戦術変更を促すというものである。今回の試合を見ていると、レフェリーは確かに注意を与えているが、あの内容にしては注意の回数が少なく強度も低い印象を受ける。まずはここに手をつけるべきだろう。
それ以外で考えられるのはルールや出場契約の中に定量的な制限や基準を設けることだが、これは難航が予想される。積極性を定義づけることがまず難しいし、仮に攻撃回数などで定量化しようとかいう話になるともう泥沼だ。

だがそれでも、今回を契機にaggressive fightをもっと促す流れが生まれれば良いと思っている。方法は簡単だ。契約書の中に「選手らしからぬ消極的な戦いに終始した場合は後からファイトマネーの一部ないし全部を没収することができる」とあえて定性的に盛り込めばいい。「ロメロ条項」とでも呼んでしまえ。
強権的だ、非現実的だ、という人がいるかも知れない。だがこれは結局のところビジネスだ。市場の健全性を守ることには十分な大義があるだろう。考えてもみてほしい。今回最高の試合をしたイェンジェイチックもウェイリーもファイトマネーは10万ドル。対し最低の試合をしたロメロは35万ドル、アデサンヤは50万ドルだ。もし今回のことを放置したら、果たして女子2人は今後も同じパフォーマンスをしてくれるだろうか?

ロメロは試合後の記者会見で「あいつ(アデサンヤ)のローキックなんか効いていない」と豪語するやおもむろに立ち上がり、ドヤ顔でサルサのステップを踏んで見せた。全く悪びれる様子はなく、自己正当化を続けている。
だが一方で試合後にインタビューを受けたUFC社長のデイナ・ホワイトはこう語っている。
「ロメロは既に40歳を越えていて、今回が最後のタイトル戦になる可能性があったんだ。その彼がこんな戦い方をするとは思ってもみなかった」

泣いて馬謖を斬る。そのための鯉口は、意外とあっさり切られるのかも知れない。

足を止めたら打たれるのだ

亀田一家がJBC(日本ボクシングコミッション)を相手取った裁判で、東京地裁は1月末、JBCに対し亀田一家へ4,500万円を支払うよう命じる判決を下しました。
この裁判は亀田一家がJBCから不当な圧力を受けたとして訴えていたもので、その言い分が認められたことになります。
JBCの運営はこれでかなりまずくなるようです。一言で言うと「支援がなければ破産」。
なんでも現金相当物が600万円しかないのだとか。まじか。

JBCの危機的な資金繰りについては専門に書かれている記事があるのでそちらに譲るとして、なぜこうなったか。
それは「市場環境の変化を無視した」ことだと思います。

日本におけるボクシングの歴史のうち、2000年代前半は注目すべき時期です。
スポーツの人気度の一端は競技人口の多さに現れますが、ボクシングではプロライセンス登録者数がその指標と言えます。
その登録者数が最大だったのが2004年で、約3,600人のプロ登録者がいました。これは現在の1.5倍以上に当たります。
単年でのプロテスト受験者数が最大を記録したのも2003年でした。
つまり2000年代前半はボクシング人気のピークだったと言えます。

この時ピークを迎えられた原因として特筆すべきなのはリアリティショー『ガチンコファイトクラブ(1999~2003)』の存在です。
ガチンコ~の直前から同時期にかけて同じくリアリティショーの『ASAYAN(1995~2002)』があり、モー娘。を輩出する成功を収めていますから、リアリティショーの手法を格闘技に応用した新結合=イノベーションがガチンコ~だったと言って良いでしょう。
つまり2000年代のボクシング人気は、もともと競技として十分な知名度があったところにリアリティショーの手法を上乗せしたことで得られたものでした。

しかし、ここからがポイントなのですが、その2000年代前半の時点でボクシングの立場は盤石ではありませんでした。
強力な競合がちらついていたからです。K-1とPRIDEです。
K-1はもともと多数派に分裂してしまっていたキックボクシングを地上波コンテンツ向けに再編したものであり、ボクシングの目線から言えば弱体化していた競合が舞い戻ってきたような存在でした。
一方のPRIDEは新興勢力で、倒れた相手を追撃してぶん殴っていいという強烈なインパクト・非日常性を持っていました。
ボクシングの失策は、ファイトクラブは良いとして、その時既に出現していた競合に対しては無策だったことです。

競合関係という視点で見るとボクシングの旗色は悪いものでした。
まずK-1もPRIDEもはいずれもボクシングより“リアル”に見えました。簡単に言えばより喧嘩に近かった。最強を追い求める少年漫画的な世界観がよりフィットするコンテンツはルールに制限が少ないK-1やPRIDEでした。
またどちらの競合も戦略としてスターシステムを投入していました。スターシステムとは特定のスター選手を擁立して人気を牽引させる手法です。これはスターの発掘作業や発掘後のスターへの負担が大きい諸刃の剣なのですが、ハマれば効果は絶大です。そしてK-1は外国人選手や魔裟斗、PRIDEは桜庭和志というスターを見事に発掘し推してきていました。
そもそも「格闘技好き」というニッチな市場に対し競合が2つも出現したら単純計算でも市場が三分されてしまうのですから苦境は当然です。よってこの時のボクシング界は死に物狂いで地位を確保せねばならない局面にありました。
ガチンコファイトクラブはその対抗策の1つとしても機能しましたが、コンテンツとしての刺激性に勝るK-1やPRIDEに押されていったことは明らかでした。
そしてK-1やPRIDEに対し明暗が分かれ始めた頃に現れたのが、強烈な個性を持つ亀田一家でした。

亀田一家の“活躍”については割愛しますが、大いに物議を醸しました。
今で言うアンチがたくさんついたわけです。
パフォーマンス偏重だ。KOできてないじゃないか。 実力が怪しい。 …。
色々な声が挙がっていました。

しかし、ここで「そもそも」論に戻ってみると。
そもそもスポーツビジネスとは衆目を集めることが価値なのです。ショービジネスだからです。
その観点で亀田一家のやってきたことを振り返ると、いずれも衆目を集めることに繋がっており、行動と目的とにアラインメント(整合性)がとれています。

もっと深掘りします。
アンチ亀田一家の根拠の1つはガラの悪さですが、ガラの悪さを足場にメディアに出て衆目を集める人は格闘家でなくともたくさんいます。
また判定決着の多さも根拠でしたが、勝たなければ衆目を集められない以上、結果的に判定決着が多くなるのはあり得る話です。
実力への疑問符も、ランクインのために弱い相手を呼ぶのは常套手段ですし、王座挑戦権を売買するのは「オプション」としてボクシング界でも許されている行為です。

つまり亀田一家は、確かにそれまでにないニュータイプの劇薬に一見みえましたが、冷静に考えればそうでもなかった のです。
従って当時のボクシング界は、亀田一家に対して支持に回ることもできたし、不支持に回ることもできたのです。
その選択肢がある前提で当時の市場環境=K-1やPRIDEがインパクトとスターシステムで攻め込んできていることを考えれば、ボクシング界がとるべき戦略は「亀田支持」だったと考えます。

しかしJBCはじめボクシング界は最終的に「亀田不支持」を選択しました。
その理由は色々あるのでしょうが、根本的には「JBCやボクシング界が考えるボクシングブランドに合わない」だったことは容易に想像がつきます。
ひたむきで地道な求道者。それが当時も今もボクサーの理想像であり、世間から求められている(とボクシング界が思っている)ものです。
そういう意味ではボクシング界は昔から貫いてきたポリシーを再度貫いたにすぎません。
しかしこの選択は悪手でした。競合が存在しない市場においてはブランド価値の上がる良い打ち手ですが、競合が存在している市場においては単なる独りよがりだからです。

このように言うと反論として「今の村田諒太や井上尚弥を見てみろ。彼らは亀田一家のような過剰な煽りはしない。実直でひたむきなチャンピオンであり、その選手が今人気を牽引しているじゃないか」という意見が出てくるでしょうが、その意見は適当ではないと思います。
まず彼らは戦績が異常にずば抜けています。試合だけで魅せられる超弩級の選手がたまたま出てきただけです。井上尚弥は取り上げられても一緒に試合をした伊藤雅雪はろくに取り上げられていません。
また彼らは自身でメディアに出てPR活動もしています。亀田一家ほど強烈でないにしろ、本分である練習時間を削って出ているのですから、やっていることは同じです。
村田諒太や井上尚弥を推す施策には再現性・継続性がなく、かつ亀田一家へのアンチテーゼでもないのです。

何が言いたいかというと、まじめにひたむきに頑張っていても、周囲を見ていないと環境の変化に対応できず競争に負けるということです。
これは何もボクシングに限った話ではありません。日本の製造業の多くががまさに直面している問題と言えます。
もしJBCやボクシング界が「市場環境が変わった」と認識していたら。ゲームのルールが変わり、有効な施策が変わったと認識できていたら。亀田一家が従来の路線と対極にいたとしても、それを承知で活かす手を打てたのではないでしょうか。
それができずに劇薬として疎んじた結果が、この4,500万円なのではないでしょうか。

足を止めたらいけないのです。まとめて打たれてしまいますから。

これから始めます

こんにちは。群上 景(むらかみ きょう)といいます。
登録はずいぶん前にしたのですが、記事を書かずに今日まできました。
ようやくまとまった時間を少しとれるようになってきたので、これから書いていきたいと思います。

私が書く内容はマイナースポーツのことが多くなると思います。主に格闘技。
但しその内容は、技術論もありますが、業界や団体の戦略やマーケティングといった経営的視点も交えて書きたいと思っています。
この組合わせに需要があるかはさておき、あまりない世にない組合せでしょうし、私の経歴上は最も頑張って書けるテーマなので、これにします。

私は関係者ではないのであくまでも外野から見た分析を書くことになります。
しかしそれなりに掘り下げた内容を書こうと思っています。
どうぞお手柔らかにお願いします。